西武池袋線で、池袋駅から急行で40分の入間市駅。ここから車で20分ほど走ると、雑木林の中にぽっかりと開いた空間がある。あまり光の差さない、ほの暗い場所。そこには1メートル弱の太い丸太が、整然と並んでいる。丸太はしいたけ菌を植える原木で、「ほだ木」と呼ばれる。

しいたけを収穫する貫井園3代目の貫井香織さん(写真:皆木 優子、以下同)

 「ほだ木」の側面のあちこちに、めったに見られないほど肉厚で見事なしいたけが顔を出している。狭山茶と「原木しいたけ」を生産する貫井園3代目の跡取り娘、貫井香織さん(30歳)はこの場所を「山」と呼んでいる。

 「しいたけの収穫とお歳暮やお節用の出荷、来年の準備で、年末の今が一番忙しい時期なんですよ」。そう言って、立派に育ったしいたけの一つひとつを、丁寧にもぐようにして採る。モデルとしてテレビCMに出たこともある貫井さんは、スラリとした身のこなしで、ほだ木の間を身軽に歩き、黙々と作業を繰り返す。しいたけが、かご3~4杯になるまで1時間ほど収穫を続ける。

 取材をした12月末の時期は、毎日この「山」に入り、午前中の1~2時間をしいたけの収穫に費やす。雨が降ったらほだ木にビニールをかけ、やんだら外すなど、まめに温度の調整も行う。天候としいたけの状態によって、作業は毎日変化する。

 貫井さんは、東京の高輪台に住み、2007年まで会社勤めをしていた。2008年4月に、実家の営む貫井園に「就農」したのだ。

 「山」で収穫をした後に貫井さんが向かう場所は、「ハウス」のある作業場だ。父の義一さんと一緒に、ほだ木を水に浸す作業をする。このハウスはシステム化されていて、ハウスと水槽の間をレールが走り、鉄の棒に通したほだ木を手で運ばなくても移動できるようになっている。しかしレールが設置されているのはここだけで、後はすべて手作業。大ぶりのほだ木はとても重く、貫井さんの手では一度に1本しか運べない。


10日以上かけて、しいたけはこの大きさになる

 「山」の中では、自然の温度差で10日間以上かけてしいたけを育てるが、人工的に温度を調整できるハウスでは1週間でしいたけが育つ。よく見ると、先ほど「山」で見たしいたけよりもちょっと小ぶりだ。「これは菌種が違うんです。ハウスでも贈答用のしいたけは育ちますが、山のしいたけこの時期だけの高級品です。ハウスの小ぶりのものは近所のスーパーに毎日卸しています」と貫井さん。

 毎朝6時起きでしいたけをパックして、9時までにジャスコに納めるのも貫井さんの仕事。ジャスコには「貫井園の原木しいたけ」のコーナーがある。年末は日に4回納品しても売り切れてしまうほど人気だ。「今日は取材だからお化粧していますが、すっぴんで納品に行くことも多いんです」と笑う。

 作業する場所は「山」が2カ所とハウスが2カ所、お茶畑と自宅兼店舗。この場所を一日中車で行き来しながら、365日が過ぎる。

 「農業は休みがない!」。就農してから気がついた。会社勤めの時代は、土日はゆっくり寝ていたのに…。最初は、右も左も分からず父について歩いた。

 父の義一さんは、「原木しいたけ」で農林水産大臣賞を3度受賞している。父も、もともとは日産自動車の営業マンだったが、茶園をやっていた祖父の跡を継ぐため、27年前、32歳の時に就農した。


「菌床」ではなく「原木」にこだわった父

 「祖父は、手もみでお茶を作れる生産者でした。私の小さい頃は家にお茶の工場があって、新茶の5月になるとお茶の機械が回っていました。3歳の時に長男である父が脱サラして実家の茶園を継いで、その後仲間に誘われて1981年に始めたのが、原木しいたけの生産です」

 貫井園はもともと夏野菜と狭山茶を作っていたが、お茶作りが忙しいのは5月。冬の時期は時間に余裕があるため、11~12月が多忙になるしいたけ作りを始めた。お茶としいたけの両方で、年間安定した収入が得られるのは、農家にとってはありがたい。

27年前脱サラして農家を継いだ、父の貫井義一さん

 父がしいたけ作りを始めた当時は、国内でも「原木しいたけ」が多かったが、今は国内生産のしいたけの8割弱が「菌床しいたけ」だ。菌床とはおがくずを固めたブロックのことで、重い原木を扱うよりも格段に効率的で作業が楽なため、現在ではこちらが多く使われている。

 しかし貫井園は、原木にこだわる。「原木と菌床では全く味が違うんです。原木しいたけは、肉厚で歯ごたえもある。食べ比べてみれば分かります」。

 原木しいたけの生産は、11月頃、秋から冬の間に切り倒したナラやクヌギなどの広葉樹を90センチくらいの長さにカットして原木を作るところから始まる。貫井園は福島県からナラの原木を買っている。

 12月から4月にかけて、原木に「種駒」を植える。種駒にしいたけ菌が入っている。原木全体にしいたけ菌が回るように、1年間「山」に並べておく。天候などによって原木の組み方を変える工夫が必要なのがこの期間で、この作業を「ほだ木作り」と呼ぶ。次に、1年かけて作ったほだ木を一昼夜水につける。これでしいたけが出る準備が整った。


天候などに合わせ、ほだ木の組み方を様々に変える

 水からあげて2~3日でしいたけの芽が出て、1週間から10日で大きくなる。しいたけの芽は、しいたけ菌が活性化してから10度の温度差があると出てくるので、ハウスや「山」で温度を調整している。また、秋だけでなく1年中収穫できるように4種類の菌を使っている。

 原木にこだわった父の義一さんは、栽培を始めた当初から群馬県などのしいたけ農家を見て歩き、良質なしいたけができるように独学で工夫を重ねた。近所のスーパーに卸したら直売でよく売れたことから、扱う原木を1万本に増やした。1994年に最初の農林水産大臣賞を取ってからさらに増え、現在原木は3万本。貫井園のしいたけの生産量は県下で1~2位となった。

重い原木は、1本ずつ手で運ぶ

 幼い頃から、父が農作業をする姿を見て育った貫井さん。彼女には3歳下に双子の妹がいる。しかし、「3人とも女の子のせいか、手伝いなさいと言われた記憶がないのです。両親には『好きなことをしなさい』と言われて育ちました。私が跡取りになるなんて、考えたこともなかった。でも、小さい頃に強制されなかったせいか、農業がイヤだと思ったこともないのです」。

 学生の頃は、父母がしいたけのパック作業に追われていても、娘たちは手伝うこともなかった。そんな貫井さんがなぜ、「就農」の道を選んだのか。

 実家が農家だが、跡を継がずに会社勤めをしている人たちの話を聞くと、「幼い頃に農作業を手伝わされたことがトラウマになり、農業アレルギーになってしまった」と言う人も多い。貫井さんの場合は逆に、まったく農業に触れずに育ったことから、「就農」アレルギーがなかったのかもしれない。


大学を出てベンチャー企業に就職

 のびのびと育ち、池袋の女子高から成蹊大学の経営学部経営学科へ進学し、会計のゼミを取った。大学を卒業した2001年、就職氷河期だったが、設立3年目のベンチャーの人材コンサルティング会社のレイスに就職。「家業が嫌だったわけではありませんが、“都会のサラリーマン生活”に憧れていました」。本社は銀座で、住まいは高輪台。土日もきちんと休める。

 レイスに入社して2年半でマネジャー職になり、4人の部下も持った。貫井さんが入社した時には20人ほどだったが、5年で100人の会社に成長。しかし5年目、28歳の時に、貫井さんは設立3年目のPR会社ビルコムに転職する。

 レイスでCI再構築の担当を任され、広報やPRの仕事に興味を持ったが、レイスには広報の部署はない。「ベンチャー企業なので、5年もいると役員を入れて5番目ぐらいの古株になってしまいます。仕事もある程度、自分の好きなようにもできるし、逆にそれが自分にとっての壁になりました。何か違うことをやってみたいと思い、探して巡り合ったのが広報という仕事でした」。

 こうしてビルコムで1年半広報の仕事に就いたが、30歳になる直前の夏に退職。その時の貫井さんの思いは、「起業したい」ということだった。

 今思えば、30歳直前になる女性が感じがちな「壁」に突き当たったのだと思う。「このまま会社勤めをしてお金を稼ぎ続け、その先はどうなるのだろうか…」。

 会社員としての将来の展望が見えなくなったのだ。働く女性の中には、30歳を区切りと考え、生活を変えたいと思う人もいるが、貫井さんの場合は違った。漠然とした「起業」という思いが次のステップへと導いたのだ。

 会社員である限り、上司と意見が対立しても、結局は上の意向が通る。企業で長く働いていると「長いものには巻かれよ」という気持ちになるのが常だが、ベンチャー企業を経験した貫井さんの意識はかなり違っていたようだ。

 「誰かに雇われている立場だと、ほかの人と自分の目指すものや方向性が違っても、経営者の考えが優先されるわけですよね。そんな中で、自分がやりたいことを仕事にしていきたいという漠然とした思いがあって、それを探すために30歳になる前に会社を辞めました」

 起業しようと、ウェブ制作のデザインを勉強するために半年間スクールに通った。現在の貫井園のウェブサイトは、スクールでの卒業制作だ。ここでネット通販の仕組みを盛り込んだのも、貫井さんである。ウェブデザインの仕事をしたことは、実家のビジネスに役立った。

 しかし、ウェブデザインの仕事で起業するほどには、「自分にはデザインのセンスはないのではないか」と気づく。挫折感を味わうが、今さら会社勤めには戻りたくない。その時、天啓のように閃いたのは「そうだ! 貫井園という家業があるじゃない」。

 思いたったが吉日。すぐに実家に電話をかけ、「家を継ごうと思うんだけど、どうかしら?」。

 娘の突然の「跡取り宣言」に、電話に出た母は驚き「ええっ、お父さんに代わるからちょっと待って」。

 しかし貫井さんの気持ちは固まっていた。「今やっている派遣の仕事が3月まであるから、派遣の契約が切れる3月末で実家に戻るわ。4月から就農ね」。一方的に決めて、本当に実行してしまったのが、2008年4月。跡取り娘のブログは、4月1日に始まっている。

 実際に農作業を始めてみると、楽しくてたまらない。「やりがいがあるというのでしょうか。会社に勤めていた頃と違うのは、『こういうことをやってみたい』という思いが、どんどん出てくるのです」。

 今、貫井さんの目標は3つある。1つは農業生産者として、今の原木しいたけと狭山茶という2つの軸のほかに、自家用に作っている少量多品種の有機野菜を新たな商品として展開していくこと。

 2つ目は、この野菜や埼玉の地場の素材を使ったレストランをオープンすること。そして3つ目に、海外向けに、おいしい日本食を作るための食材を輸出していくことだ。

 夢は大きい跡取り娘だが、父の義一さんは、「社長だけ継ぎたいんじゃないの。俺は絶対にそう思っているんだけどな」と笑う。

 大きな夢ではあるが、貫井さんには夢を共有できる仲間がいる。それが「農家のこせがれネットワーク」だ。これは、就農している跡取りたちのネットワークで、現在NPO法人(特定非営利活動法人)の発起人を募集している。

 「一次産業をかっこよくて・感動があって・稼げる3K産業に」を合い言葉に、日本の農業を改革しようという集団で、若手農家や農家出身のベンチャー起業家らが手を組んでいる。5年をタイムリミットに掲げ、農家出身者が自信を持って実家に戻り、農業を継げるよう後押しするグループだ。

 貫井さんは就農した後でこの仲間たちに出会い、大いに刺激を受けることになる。

(後編に続く)


貫井 香織(ぬくい・かおり)
1978年、埼玉県入間市生まれ。父は狭山茶と原木しいたけの生産者貫井園を営む。2001年成蹊大学経済学部経営学科を卒業し、ベンチャー企業のレイスに入社。2006年にPR会社ビルコムに転職。2008年、30歳で、実家の貫井園に「就農」。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。