景気減速の影響で節約ムードが高まる中、土鍋や鍋料理の材料が売れている。「値段の割に栄養価が高く、家族だんらんのきっかけにもなる」といった理由からで、「マロニー」もその1つだ。

45年の歴史があるマロニー。マスコットの絵は、時代とともに少しずつ変化しているという

 世間の不況など、どこ吹く風。自動車産業をはじめ製造業が軒並み減産を余儀なくされる中、「マロニー」は生産が追いつかないほどの人気ぶり。製造しているマロニー(大阪府吹田市)では、一部の工場で2交代制を敷いているほどだ。

 同社は年商24億円の食品メーカー。売り上げの95%を占める「マロニー」は、北海道産のじゃがいもやとうもろこしから採れるでんぷんを原料とする、いわゆる“はるさめ”で今から45年前の1964年に発売した。

 「適度なコシがあり、煮崩れしない」「水分を吸収するため茹で上がりが速く、味つきもいい」といった、従来の製品にはない特徴を武器に業界最後発の発売ながら、“乾燥はるさめ”のジャンルで国内トップシェアの座を獲得した。


会社員経験ゼロの主婦が、総務部長として入社

 そんな同社を率いるのが、2代目社長である河内幸枝(かわち・ゆきえ)だ。創業者である吉村義宗を父に持つ。河内は1984年4月にマロニーに入社し、1991年に社長に就任した。

河内幸枝マロニー社長(写真:山田 愼二、以下同)
女優の中村玉緒を起用したテレビCM

 実は河内は、筋金入りの「箱入り娘」「箱入り妻」で、マロニーに入るまで会社員としての経験はゼロ。25歳で結婚し、専業主婦として暮らしてきた。同社に入社したのも40歳の時だ。しかし、河内は“素人であること”を逆に強みにして、会社を成長させてきた。その象徴と言えるのが、中村玉緒のテレビCM起用だ。

 「マロニー」を食べたことがなくても、女優の中村玉緒が「マロニーちゃん」と口ずさむCMなら知っている人も多いのではないだろうか。同社の認知度を全国区へと押し上げたこのCMの生みの親は河内である。

 15年前、CM出演がほとんどなかった中村玉緒を「限られた広告宣伝費で強烈なインパクトを消費者に与えられるのは、玉緒さんしかいない」と、周囲の反対の声を押し切って起用した。その後も、河内は堅調に売り上げを伸ばし、入社当時の6割増まで年商を増やした。

 「専業主婦の経験しかなく、40歳にもなって会社に入ることに不安がなかったかと言えば嘘になる。それでも、入社を決断したのは、苦労しながら会社を大きくしてきた父が、後継者問題で悩む姿を見ていられなかったから」

 河内は1943年、3人姉妹の長女として生まれた。父、義宗はもともと福岡県の山村の出身だったが、21歳の時徴兵され、35年と37年に2度出兵。41年には妻・福代とともに満州へ移住した。河内が誕生したのはこの時だ。

 大陸での生活は希望に満ちていたが、現地で営んでいた土木業が軌道に乗り始めた矢先、義宗に召集令状が届き、3度目の出兵。敗戦後はシベリアに抑留され、約3年にわたり、零下50度の収容所生活を強いられることになる。

1950年頃、家族で大阪に移り住んだ頃。写真左が小学生の河内社長

 河内は母とともに、父の消息が知れぬまま、46年9月、命からがら日本へと引き揚げてきた。追って義宗が奇跡的に帰国したのは48年5月だった。

 九死に一生を得て一度はあきらめた妻子との再会を果たした義宗は、死に物狂いで仕事に没頭。野菜の仲買い、もやし製造の手伝いを経て50年、大阪でもやし製造の「吉村商店」を創業。事業を順調に拡大させた。


 昭和30年代、「もやしでは、これ以上の成長は望めない」と考えた義宗は、新しい試みを始める。一般に普及し始めていたはるさめに注目して、「マロニー」の開発に着手したのだ。

 当時、社内にはるさめ製造に詳しい社員はほとんどいなかった。にもかかわらず、義宗は約1年半で商品の開発から工場建設までやり抜き、64年6月に販売を開始した。

オフィスでの父、義宗

 「マロニー」という商品名は、社員から募集した。マーメン、ハイネン、マイグリーンなどの名前が挙がったが、最終的に「まろやかに煮える」ことから「マロニー」に決まったという。

 知名度がなかったこともあって、当初、マロニーは返品の山を築いたものの、その後、給食・業務用食材への営業展開、料理学校への商品提供、テレビCMの活用などの地道な活動で消費者に徐々に浸透。3年後には安定した収益を上げるようになり、会社設立14年目の68年、「マロニー」の売上は1億円に到達した。

 家業が確実に歩みを進めていく中、河内は義宗に溺愛された。日本舞踊や茶道、華道、料理、箏曲を習い、門限は「外が暗くなるまで」と、正真正銘の「箱入り娘」として育った。68年に大手広告代理店勤務の夫と結婚すると、今度は「箱入り妻」となる。夫は「妻には家庭を守ってほしい」と言うタイプ。

 「毎日の生活にとても満足していました。夫や3人の子供たちのために編み物をしたり、お菓子を作ったり……。自分でもいい主婦だったと思います」。そんな平凡な人生を送っていた河内が一転して、父が経営するマロニーに次期社長として入ったのは84年のことだ。

 義宗から跡継ぎにと請われ、常務取締役として入社していた河内の夫が経営方針を巡って義宗と対立。河内と入れ替わりで、会社を去ったのがきっかけだ。「夫は結婚後、会社を辞めて事業を興したほどの人ですから、父と同じ起業家気質なんですね。だから社長が2人いるような格好になり、父との衝突が多くなったのだと思います」。


父、吉村義宗。マロニー創業50周年の記念に

 予想外の出来事での後継者不在――。業績は好調だったが、義宗は再び後継者問題で頭を抱える。次女、三女の婿も候補に考えたが、最終的に白羽の矢を立てたのが、長女である河内だった。

 父の強い意向とはいえ、河内には逡巡する気持ちがないではなかった。それまで会社を継ぐ気などまるでなく、「父と夫でうまくやってくれたらいい」と思っていたからだ。それに、この年になるまで家事しかしたことのない自分に何ができるのかという思いもあった。しかし、父の苦しむ姿を見て一世一代の決断をする。

 「長い間、必死の思いで働いてきた父の背中を見て育ちましたから。もし少しでも手助けできるなら、そうしたいと思ったのです」


マロニーの社屋

 84年4月の出社初日、河内は会社を目の前にして足がすくんでしまったという。「今から思えばほんの数十秒だと思うんですが、ピタッと足が止まって前に行かないんです。きっと今日からは“社長の娘”ではなく、社員、会社の一員として、この門をくぐるんだということに緊張したんだと思います」。

 当時すでに100人を超えていたという社員に、河内は次の社長として紹介された。突然現れた“跡取り娘”。そんな彼女に社員はどんな感情を抱いたのか。

 「お嫁にいくまで会社と同じ敷地内の家に住んでいましたし、結婚してからも子供を連れてよく遊びに来ていたので、自分の立場が変わったことになかなか気づかなかったんですね。みんなよく知っているし、一緒に育ったようなものだから、受け入れられないはずがないと、その頃は信じて疑いませんでした」と河内は当時を振り返る。

 「ただその頃、誰も何も教えてくれず放っておかれたことを考えると、周囲の皆は(私が来たことで)あまり気分が良くなかったのかなと、今頃になって思います(笑)」

 入社当時の肩書は、総務部長。しかし、入社してから2年もの間、河内に仕事らしい仕事はほとんどなかった。「ここに座ってて。見ていれば分かるから」。そう専務から声をかけられたぐらいで、社長である父も経営の哲学どころか、仕事のイロハさえ教えてくれない。ただ1日中座っていることが苦痛になった河内は、仕方なく会社の書類を棚から引っ張り出して、様々な経営指標を読み始めた。

 それまで働いた経験すらないので、企業の財務データなどは初めて目にするものだ。貸方、借方といった言葉も、もちろん分からない。

 「でも、時間だけはたっぷりありますから、書類を読んでは気になったことをメモするようになったんです。社長の娘ですから、どんな書類に触っても誰も文句を言わない(笑)。次から次へと書類を引っ張り出しては、自分のノートに書きつけるうちに、会社というものがおぼろげながら見えてきたんです」(文中敬称略)

 (後編に続く)


河内 幸枝(かわち・ゆきえ)
1943年、福岡県生まれ。84年、専業主婦から一転、父・吉村義宗が創業したマロニーに40歳で入社。総務部長、専務取締役を経て、91年から現職。趣味は62歳から始めた社交ダンス。

■変更履歴
記事掲載当初、1ページ本文中で「1999年に社長に就任した。」としていましたが、正しくは「1991年に社長に就任した。」です。お詫びして訂正します。本文は修正済みです。 [2009/02/20 18:00]
日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総合研究所 大塚葉が担当した記事を再掲。