前編から読む)

 「“なんで”の河内(かわち)」。専業主婦から一転、40歳でマロニーに入社した河内幸枝(かわちゆきえ)は、しばらく経つと周囲からこう呼ばれるようになった。「なんでそうなるの?」「なんでそうしたいの?」などと、社員をいつも質問攻めにしたからだ。

マロニー社長の河内幸枝(写真:山田 愼二)

 弱みであるはずの「何も知らないこと」が、河内の強みだった。

 「何度も『なんで?』と聞くと嫌がられるかなとか、こんなことを聞くのは恥ずかしいかなとか、少しも考えなかった。分からないから教えて、という気持ちでした」

 社員に質問や指摘をする時、会社の経営指標を片っぱしから見て、その数字をメモしてきたことが役立った(前編参照)。河内はただ書類を眺めるのでなく、売上高や損益、借入金などありとあらゆる数字を十数年分、自分で手帳に書き写した。このため、重要な数字やその推移はすべて頭の中にたたき込まれていたのがよかった。


25年間、会社の数字を手帳に書き写した(写真:岡崎 利明)

 報告1回につき10回も「なんで?」と言われることに、最初のうちは閉口していた社員たちも、抽象論ではなく具体性がある数字で話をすることで、おのずと聞く耳を持ってくれた。河内はもはや、「会社のお客さん」的存在ではなくなった。

 もう1つ、河内の“素人目線”が生きたのが、前編で紹介した、中村玉緒のテレビCM起用だ。

 マロニーは東京でCMをオンエアする4~5年前、すでに首都圏エリアへの進出を果たしていたが、売り上げはいま一つ伸び悩んでいた。圧倒的な知名度を誇る関西に比べ、関東では無名に等しかったからだ。

 「なんとか東京での認知度を上げたい」と考えたのが、東京でテレビCMを流すことだった。ただ、予算の関係上、流せるのは1日1本程度。そこで「一度見たら忘れられないCMをつくろう」と、複数の出演候補者の中から河内が選んだのが、中村玉緒だった。

 当時、中村玉緒には「やんちゃな夫(故・勝新太郎)を支える献身的な妻」というイメージがあった。そんな彼女なら、マロニーの主要購買層である主婦の共感を得られるに違いない。「少なくとも私はそうだ」という主婦の感覚で、河内は中村を採用した。

 これが当たった。中村への注目度の高さもさることながら、「マロニーちゃん」というフレーズが人気を博した。

 「最初、CM中の玉緒さんのセリフは『マロニーさん』だったのです」と河内は言う。ところが、撮影の休憩中にこんなことがあった。「関西人ってよく『あめちゃん』とか、モノを『ちゃん』づけで呼ぶことがありますよね。そんな雰囲気で、休憩中に玉緒さんが『マロニーちゃん♪』と、鼻歌を歌い始めた。それを見て、これだと思い、急きょセリフを『マロニーちゃん』に変更したんです」

 結果、ちょうど中村がバラエティー番組に出演し始めた時期とも重なり、マロニーの認知度は格段にアップ、一挙に全国ブランドへと成長した。

 「このCMのおかげで、皆さんが『マロニーちゃん』を知ってくださるようになりました。当時は、こんなに当たるとも、それこそ十数年も続くとも思ってもいませんでしたが、このCMの出来にはとても満足しています。玉緒さんはもちろん、勝(新太郎)さんも大変気に入ってくださいました」

 その後、河内は専務取締役を経て、1991年に父の跡を継いで社長に就任。順調に事業を伸張させていった。


品質管理の高さを評価され、マロニーはベルギー・モンドセレクション金賞受賞(写真:山田 愼二)

 父に溺愛され、父のために会社に入り、父のために社長として力を尽くす――。そんな河内の姿は父・義宗にとって頼もしくもあり、寂しくもあった。

 「社長にはしたけれど、女だし、何も分かってないし、何もできずにおとなしくしているだろうと思っていたら、予想外に頑張るし(笑)、業績もそこそこ悪くない。父としては文句のつけようがなく、何だか無性に腹が立ったんでしょう」

 河内が社長となってから、父との闘いの日々が始まった。父のいる会長室に呼ばれては、同じ小言の繰り返し。義宗は経営の第一線を退いたことの喪失感を、河内にぶつけていたのだろう。河内はそんな父の気持ちを理解し、親子げんかにつき合った。

 「何か言われたら、それに対して一つひとつきちんと答えました。父ですし、先輩ですし、創業者ですから。いつも『だいたいお前は…』で始まって、『やっぱりお前だ』で終わり。親子で毎日けんかしていました」

 こうした時が9年間も続いた。

 「父に似て、私も辛抱強いんです。父とけんかするのは私の役目だと思ってました。確かに大変といえば大変でしたが、それだけ誰よりも父と共有した時間が多かったと思えば…。ただ私が女でよかった。男性だったら、まともに衝突していたかもしれません」

 そんな父との闘いに終止符が打たれたのは2000年、折しもマロニーは創業50周年を迎えていた。河内は父への愛情と尊敬の念を込め、自らの構成で記念誌「味わい深く、まろやかに」を作成した。社史の体裁ではあったが、その内容はいわば父・義宗の半生記だった。


2000年に作成したマロニーの記念誌(写真:山田 愼二)

 「父がいるから今の私がある。この会社を興してくれたこと、社員や私たち家族を守ってくれたことへの感謝の気持ちを、父にどうしても伝えたかった。それに、これまでの道のりを社員と分かち合い、次の50年に向かいたかったんです」

 河内の思いが父に通じたのか、記念誌を作成して以降、父から呼び出しがかかることは一切なくなった。

 「これを読んで初めて『幸枝は分かってくれている』と思ったようです。父は昨年3月に95歳で亡くなりましたが、最後に『本当にお前に任せてよかった』と言ってくれました」

 河内は幼い頃体が弱く、医者には「長くは生きられないだろう」と言われていた。学校も休みがちで、大学もそのために中退した。専業主婦をしていた時も、年間200日以上は風邪を引いていて、常に病院にかかっていた――。そんな虚弱体質だった河内だが、会社に入ってからすっかり丈夫になったという。

 「確かに体も弱かったんですが、今から思うと、家では父に、嫁ぎ先では夫に締めつけられて、窮屈だったのかもしれません。その時は特に不満にも思っていませんでしたが、実は“好き勝手にすること”が好きだったんだと、会社に来て分かりました。誰にも束縛されず、伸び伸びと自分のしたいようにできる。たぶん社長業が性に合っていたんでしょう。辛いこと? ないですね。私が鈍いせいもあるんでしょうけど(笑)」

社屋の前で社員たちと(写真:山田 愼二)

 儲かればどんなことをしてもいいのではない。自分たちが食べておいしいと思うものだけを売ろう。きちんとしたものをきちんと作り続けていれば、商品も会社もきちんと残っていく――。これがマロニー創業者である父・義宗の信念だった。

 この思いは河内へも間違いなく受け継がれている。 「現在、マロニーの販売はおかげさまで好調ですが、少しいいからといって浮かれることなく、やるべきことをきちんとやろうと社員に話しています」

 父が育てた大事な会社や商品、社員を守りたい。少なくとも父が生きている間は人手になど絶対に渡さない――。河内はその一心でここまでやってきた。父が亡くなった今もその気持ちは変わらないという。

 「私は困った時、父の考えを探る作業をいつもするんです。父ならどうしただろうとか、父はこういう時にこう考えていたんだなとか。これからも父に助けられながら、経営を続けていくと思います。だって私は“素人社長”ですから」(文中敬称略)


河内 幸枝(かわち・ゆきえ)
1943年、福岡県生まれ。84年、専業主婦から一転、父・吉村義宗が創業したマロニーに40歳で入社。総務部長、専務取締役を経て、91年から現職。趣味は62歳から始めた社交ダンス。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総合研究所 大塚葉が担当した記事を再掲。