急用や病気で送り迎えができない親に代わって、タクシーが保育園や塾へ子供を安全に送迎する。乳幼児を病院に連れていく母親のために、乗車の際にタクシー乗務員がベビーカーや荷物の積み下ろしまで手伝う――。

 5年前、高松市にあるタクシー会社と子育て支援のNPO法人(特定非営利活動法人)がタッグを組んで始めた、こんなサービスが全国各地に広がり始め、話題を呼んでいる。

 通称「子育てタクシー」の旗振り役となっているのは、2007年12月から「全国子育てタクシー協会」会長を務める内田輝美だ。内田自身が社長を務める湯江タクシー(長崎県諫早市)でも、2006年9月からこのサービスを始めている。タクシー会社が単独で実施している例は、香川、山口で既にあったが、タクシー協会加盟会社全社で「子育てタクシー」に取り組むのは、全国でも初めてのことだった。

  「核家族化の進展と地域コミュニティーの崩壊で、小さな子供を持つ母親の多くが子育てに苦労している。地域に密着して仕事をしているタクシードライバーが手助けできることは少なくないはず」と内田は言う。

湯江タクシーの内田輝美社長(写真:山田 愼二、以下同)

 そんな内田の考えに賛同した同業者が次々と輪に加わり、現在、北海道から沖縄まで全国55のタクシー会社が同様のサービスを手掛ける。

 赤ちゃんを連れた客や、保育園や塾帰りなどの子供の1人客は、対応が難しかったり、短距離の依頼が多かったりするため、敬遠されることも少なくない。だが、「子育てタクシー」を看板に掲げるタクシー会社の乗務員は、子供とのコミュニケーションや小児救急法などの知識を研修で身につけているので、乗客も安心して乗れる。

 そのうえ「子育てタクシー」は、特別なサービス料を取ることもなく、原則として乗車賃は通常のタクシーと変わらない。子供の安全確保のため事前に会員になる必要があるが、登録料は無料。予約をすれば、チャイルドシートや、子供の年齢に合わせたおもちゃを乗せたタクシーで、玄関の前まで迎えに来てくれる。また、子供のみの乗車の場合は、きちんと送り届けたかどうかの連絡も入るなど、子育て家庭にとってはありがたいサービスだ。


地域に定着し始めた「子育てタクシー」

 湯江タクシーがこの取り組みを始めた当初は、「子供1人でタクシーに乗せるのは何となく不安」とサービスの利用をためらう母親もいたという。しかし、内田と乗務員たちの奮闘の結果、子育てタクシーは次第に地域に定着。今では、地元の子育て家庭にとって貴重な交通手段になりつつある。

湯江タクシー本社。タクシーの車体には「子育てタクシー」のステッカーが張られている

   「子育てタクシーを始めたからといって、乗客や売り上げが特に増えたわけではありません。でも、この取り組みをきっかけに、乗務員が見違えるように業務に励むようになったし、ほかならぬ私も、タクシー会社の経営という仕事に、前よりも誇りを持てるようになったんです。それが一番の収穫かな」。

 湯江タクシーは内田の父である清水輝雄が創業した。主要営業エリアは諫早市東部、高来町と小長井町。保有台数10台、従業員16人、年商7000万円の小さなタクシー会社である。小粒ながら、バブル崩壊や規制緩和など幾多の経営環境の悪化を乗り越えて今日までしぶとく生き残ってきた。

  内田が2人姉妹の二女として生まれたのは、そんな同社の創業間もない1967年。内田は幼い頃から、自宅と同じ敷地内にあったタクシー待機場を遊び場にし、乗務員にかわいがられて大きくなった。ただし子供の頃は、家業を継ぐ意志はゼロだった。内田が中学3年生の時、輝雄が心臓発作で急逝。これをきっかけに経営を引き継いだ母の勝子も、事あるごとに「あなたは自分の好きな道に進みなさい」と言ってくれた。

 内田の当時の夢は、アナウンサー。高校時代は放送部に所属、しゃべるのが好きだった。高校を卒業すると、芸能人や放送関係者を多く輩出している日本大学芸術学部へ進学。東京でマスコミの仕事に就こうと、大学3年生の時からテレビ局でアルバイトもしていた。

両親の突然の他界で、20歳でタクシー会社社長に

 「今から思うと、母は本当は、父がつくった会社を継いでもらいたいと思っていたのかもしれません。でも、娘2人だし、母自身夫の跡を継いでみて、女性がやるには大変な職業だと感じたんだと思うのです」と内田は振り返る。

 ところが大学3年の時に、父に続き、母が急死する。リウマチの治療のため大分の病院に入院している最中に、特殊な治療を受けた結果、容体が急変したのである。大学の授業中、母の危篤を知らされた内田は東京から病院へ駆けつけたが、すでに母の意識はなく、話をすることすらできなかった。

湯江タクシーを創業した父と、2代目を継いだ母

 母を失った悲しみに暮れる暇もなく、内田は今後についての決断を迫られる。5つ違いの姉が地元企業を経て、母の仕事をすでに手伝ってはいたが、会社を継ぐ考えは全くない。残る選択肢は、残されたタクシー会社を、内田が帰郷して継ぐか、それとも売却するかの2つしかなかった。

 アナウンサーになる夢があった内田には、家業を継ぐことなど考えられなかった。しかし、いざ売却を決断しようとした瞬間、子供の頃の遊び場だったタクシーの待機場、忙しい両親に代わって遊んでくれた乗務員たちの顔が浮かんできたという。

 もし今、譲渡をしたら、どうなるのか。乗務員の雇用は守られるのか。果たしてそれで、皆が幸せなのか――。

 「気づいたら『やります』と答えていた。今から思うと、先のことは何も考えていなかったですね」

 こうして大学3年生、弱冠20歳の学生社長が誕生した。ただし、内田が大学を卒業するまでは、母親の片腕だった営業部長が社業を代行することに決まった。内田は大学生活の合間を縫っては実家へ帰り、部長から仕事を学び、社長就任への準備を進めた。

 こうした「学生」と「社長見習い」という二足のわらじを履く生活が約4年続き、92年、内田は名実ともに湯江タクシーの社長に就任した。

 4年間の準備期間の間には、迷いが生じた時期もあった。実際、大学を卒業した後もすぐに長崎へは帰らず、東京での生活を2年間延長。営業部長には「事務的なスキルを身につけるため、簿記の専門学校へ通う」と説明したが、「本音を言えば、時間稼ぎのための通学でした」と内田は話す。

 一度は家業を継ごうと決心したものの、大学を卒業したばかりの自分に何ができるのかという不安があったのだ。帰郷を決断したのは、営業部長からの「僕ももう若くはない。あなたに本当に会社を継ぐ気があるのなら、時間がある今のうちにしっかり引き継いでおきたい」という言葉だった。

不況と生活スタイルの変化で、八方ふさがりのタクシー業界

 しかし、ついこの間まで女子大生をしていた新米社長を待ち受けていたのは、バブル崩壊後の先の見えない不況と生活スタイルの激変だった。

 内田が本格的に社長業を始めた92年をピークに、業績は右肩下がりで急降下。マイカーが普及し、タクシーの需要は年々減っていった。八方ふさがりの状況の中で、内田は跡を継いだことを何度も後悔した。

 業績の悪化に加え、内田が悩んでいたのは、自分がタクシー会社の経営に対して、どうしても本気になれないことだった。会社の経営が楽しいことばかりではないことは、分かっていた。が、それにしても苦しく、辛い。社内に、覇気がないのだ。乗務員一人ひとりはいい人なのだが、仕事に関してはいま一つ前向きではなく、職場の雰囲気はあまり明るくなかった。

 「その原因が何かを突き詰めて考えた時見えてきたのが、私も乗務員もタクシーの仕事に誇りを持っていないのではないかという思いだったのです」

 新しく乗務員を募集しても、なかなか人が集まらない。やっと応募者が来たと思ったら、「仕方なくタクシー乗務員をやる」と言う人たちばかり。そんなことを繰り返すうち、内田自身「タクシードライバーという仕事は、世間で認められていないのではないか」と感じ始めた。

 皆がタクシー乗務員という仕事に誇りを持って、前向きになれる仕組みをつくれないか。それは経営者としての私自身の幸せにもつながるはずだ。でも、どうしたらいいのか…。内田の苦悩は10年続いた。(文中敬称略)

(後編に続く)


内田 輝美(うちだ・てるみ)
1967年、長崎県生まれ。日本大学芸術学部卒業。創業者である父、母が相次いで亡くなったため、1988年、弱冠20歳の若さで湯江タクシー社長に就任。現在、全国子育てタクシー協会会長、諫早タクシー協会会長も務める。うなぎの卸加工会社を経営する夫と小学6年生の娘、6歳になる息子の4人家族。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総合研究所 大塚葉が担当した記事を再掲。