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 どうしたら社員が乗務員という仕事に誇りを持ち、私自身、タクシー会社の経営に前向きな気持ちで取り組めるのか――。湯江タクシー社長に就任してから10年間、内田輝美は考え続けた。その結果、内田の頭に浮かんだのが「子育てタクシー」だった。

湯江タクシーの内田輝美社長(写真:山田 愼二)

 「急用が入った時、子供の送迎を頼める人がいない」「子供を狙った犯罪が増え、塾から1人で帰宅させるのが心配」といった友人の声がヒントになった。内田自身、2人の子供の母親であり、子育ての途中で同じような思いしたことが何度もあった。

 「忙しい母親に代わって、子供を送り迎えするサービスを打ち出したらどうだろう。小さな子供がいる家庭には、間違いなく喜ばれるはずだ。人は誰かに必要とされれば、やりがいを感じるというから、これが乗務員のやる気につながるかもしれない。小さなことかもしれないけれど、会社が変わるきっかけになるかもしれない」

 内田が長い間抱えてきた悩みに、光が差してきた瞬間だった。

 子供の送迎のみならず、赤ちゃん連れの客のためベビーカーの積み下ろしを率先して手伝うなど、タクシー会社として地域の子育て家庭を様々な角度から支援する。そんな「子育てタクシー」サービスを形にするべく、内田は早速動き出した。


乗務員も保育園も、最初は「子育てタクシー」に懐疑的だった

 まず、一番の難題は乗務員の理解を得ることだった。

湯江タクシーには、チャイルドシートの準備もある(写真:山田 愼二)

 内田が話を持ちかけた時、乗務員はいい顔をしなかった。子育てタクシーは、子供を玄関先まで迎えに行ったりするため、当然のことながら、通常の乗車より手間がかかる。しかし内田は、経済的に豊かとは言えない家庭にもサービスを利用してもらおうと、特別な追加料金は取らないことに決めた。乗務員の中には、「納得できない」という空気が広がった。

 さらに、子供の1人客を円滑に送迎するため、乗務員が2時間の保育園実習を受けてはどうか、と内田が提案すると、一部のドライバーは「そんなことまでするのか」と絶句したという。それでも内田はあきらめず、乗務員を粘り強く説得した。

 子育てを済ませた中高年乗務員の多くは普段、小さい子供と接する機会が少ない。それだけに実習の当日、多くの乗務員は渋い表情で保育園を訪れた。しかし、時間が経つに連れ、次第に子供たちと楽しそうに遊び始めるようになる。

 「子供たちが思った以上になついてくれて、遊んでいるうちに子育てしていた頃を思い出して、つい楽しくなっちゃってね。社長が言う子供向けのサービスってのをやってみるのも悪くないかなって」。保育園実習に参加した乗務員の1人は、照れながらこう話す。

 また、子供たちと一緒になって遊ぶ乗務員の姿は、子育てタクシー自体に懐疑的だった保育園側の信頼を得ることにもつながった。

 「実は、うちの会社の乗務員だけでなく、実習を依頼した保育園側も、最初は『子育てタクシー』の提案に対して、不安に思っていたのです」と内田は振り返る。

 「保育園実習も簡単に実現できたわけでなく、園長先生が集まる役員会に何度も足を運んで、やっと認められたものでした。実習前は私自身、子供たちが知らないおじさんたちになついてくれるかどうか心配だったんですが、思いもよらないアットホームな雰囲気に、先生方も『これなら子供たちを任せられるし、お母さん方にもお薦めできる』と言ってくださったんです」


湯江タクシーで一緒に働く姉と(写真:山田 愼二)

 さらに調べてみると、高松市内のタクシー会社が同様のサービスを既に手掛けていることも判明した。2006年2月、即座に高松まで飛んで視察をした内田は、自分がやろうとしていることの正しさを実感する。

 「利用している子連れ客の多くが、乗務員に『ありがとう』と声を掛けているんですね。乗務員さんも、ほかの地域に比べ生き生きと働いているように見える。『ほかに仕事がないから、仕方なくタクシードライバーをしている』という感じの人がいない。みんな『自分だから、この仕事ができるんだ』というプライドを持ってハンドルを握っていました」

 実際に「子育てタクシー」サービスを導入する時、内田は自社だけでなく、市内のタクシー会社全社を巻き込もうと、諫早市タクシー協会へ提案した。

 「普通なら、自社だけの事業にした方が顧客を囲い込める、と考えると思います。でも、こういう事業は、保有台数10台の小さなタクシー会社だけでやっても限界があります。だったら、諫早のタクシー会社全部で実施して、諫早中のタクシー乗務員全員がやりがいを持って、明るく元気に街を走り回れるようになった方がいい。目の前の小さな収益より、そのことの方が大事だという気がしたんです」

 内田の提案を受けて、諫早市タクシー協会では2006年8月から子育てタクシー事業をスタート。高松への視察から数えて、準備期間はわずか半年だった。


神奈川県タクシー協会鎌倉支部主催の乗務員向け研修で講演する内田(写真:皆木 優子)

 導入から2年半が過ぎ、子育てタクシーは着実に地域に根づき始めている。

 全国子育てタクシー協会会長でもある内田は現在、このサービスを全国に広げようと各地を飛び回る生活を続けている。「もっと多くのタクシー会社が、子育てタクシーに取り組むべきだ」と考えるからだ。

 まだ理解が十分に得られない地域もある。でも、内田はこのサービスを始めて良かったと思っている。

 何よりそう思うのは、利用者の感謝の声を聞く時だ。ある利用者から乗務員宛てに、こんなメールが届いたこともある。

 「いつも乗務員さん方には一生懸命していただき、感謝の思いでいっぱいです。

 数週間前の雨のひどかった日、ご自分が濡れながら、娘に傘を差してくださっている乗務員さんの姿を見て、涙が出る思いでした。嫌なことの多い世の中ですが、こんなに優しく、一生懸命にしてくださる方たちがいることを多くの人に知ってほしいと思います。

 確かに子供を育てにくい世の中になってきているのかもしれませんが、一方で子育てタクシーのような取り組みがあり、助けられている私のような母親がいます。タクシーのおじちゃんに優しくしてもらったことは、将来、娘の温かい思い出の一つになると思います。

 遅くなりましたが、お礼を申し上げます。皆様もどうぞお体にお気を付けくださいませ。」

タクシー乗務員と一緒に(写真:山田 愼二)

 「うれしいのは、私だけではないんです。この間、ある乗務員がずいぶん機嫌良く帰ってきたので、何か良いことがあったのかと聞いたんです。そうしたら、保育園にお迎えに行った時、子供さんが保育園で習った歌を教えてくれて、車の中で一緒に歌ってきたんですって…」

 景気の悪化に急速な規制緩和もあってタクシー業界の現状は厳しい。内田自身、会社の売却を真剣に考えたこともあった。でも、今は違う。

 「工夫をすれば、楽しく誇りを持って取り組める仕事なんだって、私も乗務員も分かりましたから。ええ、今なら胸を張って言えますよ。この仕事が好きだって」(文中敬称略)


内田 輝美(うちだ・てるみ)
1967年、長崎県生まれ。日本大学芸術学部卒業。創業者である父、母が相次いで亡くなったため、1988年、弱冠20歳の若さで湯江タクシー社長に就任。現在、全国子育てタクシー協会会長、諫早タクシー協会会長も務める。うなぎの卸加工会社を経営する夫と小学6年生の娘、6歳になる息子の4人家族。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総合研究所 大塚葉が担当した記事を再掲。