「いらっしゃいませ」

 メーカーズシャツ鎌倉常務取締役の貞末奈名子(さだすえななこ)さんは、会社の発祥の地である鎌倉本店で、笑顔で迎えてくれた。メーカーズシャツ鎌倉は、貞末さんの両親である、貞末良雄さん、タミ子さんが立ち上げた「年間30万枚のシャツ」を売る、日本一のシャツのスペシャリティーストアとして注目されている。

 貞末さんが着ているのはもちろん自社製シャツ。女性用でフリルがついているが、ブラウスではなくあくまでレディース用もシャツである。ボトムはパンツで、キリリとした印象。店舗で働くほかの販売員の女性も、皆イメージが似ている。

メーカーズシャツ鎌倉常務取締役の貞末奈名子さん。鎌倉本店で(写真:山田 愼二)

 「シャツを売るというのは、カジュアルショップではないので、上品な美しい女性としての姿勢でいてほしい、といつも指導しているんです」

 しばらく店舗にいると、入ってくるお客のほとんどがリピーターだと分かるが、顧客相手に販売員の女性たちが熱心でしっかりした対応をしている。気持ちのいいお店…。現場に来てそう思える会社は、経営者のポリシーが血液のように隅々まで浸透している証拠だ。

 「うちの販売員はほとんど正社員です」と貞末さんに言われて驚いた。現在、メーカーズシャツ鎌倉の社員は73人。東京、横浜を中心に直営店は11店舗なので、各店舗を3人で回す体制になっている。今のご時世、社員の社会保障の負担だけでも大変なことだが、正社員にこだわるのは訳がある。

 「モノを売ってレジを打つだけではなく、お客様に作り手の思い、商品の良さ、心の部分をきちんと伝えてほしい。そんな人材を育てるのは、1週間程度の研修でお店に立つアルバイトでは無理なのです。長く勤めて、一緒に会社を盛り上げてほしい」と貞末さん。社員の8割が女性。店舗スタッフは大卒が多く、4年前から毎年10人ほどの新卒採用もしている。

 メーカーズシャツ鎌倉は1993年に創業し、現在は商品企画や在庫管理を担当する会社、サダ・マーチャンダイジング・リプレゼンタティブを父親の良雄さんが、そして母親のタミ子さんが販売のメーカーズシャツ鎌倉の代表を務める。貞末さんは、母親の会社の2代目になる。

 鎌倉本店の広々した店内にディスプレーされているのは、白、ボーダー柄に襟だけが白いクレリックシャツ、上質そうなしっかりした綿のパステルカラーも色とりどりに揃っている。


鎌倉本店の店内には、喫茶スペースも併設している
(写真:山田 愼二)

 リピーターが多い理由は、商品を見ていて分かった。驚くほどバラエティーに富んだシャツを展開している。トラッドのシャツは「定番」というイメージを裏切り、生地、細部まで凝ったデザインは、すべて微妙に違う。

 「実はうちのシステム、商品の提案スタイルが、普通のアパレルさんとは違うのです。1つの形を少量でしか作らないのです。定番商品は一応あるのですが、いろいろなものを作り続けて、毎週、商品を投入していきます」

 1週間のうち3~4回は工場から新しい商品が入り、売り切れたらそれは二度と手に入らない。気に入ったものは出合った時に買うしかないのだ。顧客は、いつ行っても新鮮な商品に出合うことができる。

 ビジネスパーソンの必需品であるシャツ。ロンドンの街角などではシャツ専門店を多く見かけるが、日本ではこうした店は珍しい。メーカーズシャツ鎌倉の店は、丸ビル、品川駅、新橋駅などで見かけるたびに気になっていた。メーカーズシャツ鎌倉というブランド名も、質実剛健で妙に印象的だ。上質なのに、値段は一部を除いてすべて4900円という驚きのワンプライスである。

 「素材は綿100%で、糸は80番手双糸以上のもの(番手が上がるほど高級品。80番以上が高級品と呼ばれる)。縫製は丈夫で美しい『巻き伏せ本縫い』。そして天然の高瀬貝を磨き上げた貝ボタンが、私たちのこだわりです」

 貞末さんが、シャツを裏返して見せてくれる。「シャツの良し悪しは、裏を返すとすぐに分かります。『巻き伏せ本縫い』で丁寧に縫ってあるので、裏返しにしても着られるくらいなんですよ」。


シャツを裏返したところ。縫い目も美しく、裏返しでも着られるほどだ(写真:山田 愼二)

 「巻き伏せ本縫い」は丈夫で、着た時の体のシルエットがきれいに出る。この縫い方ができる工場は数少ない。昨今の「おしゃれでも安い」ユニクロ、GAP、H&Mなどはすべて中国製だが、メーカーズシャツ鎌倉は一部商品を除きほとんどが日本製。それでいて、4900円というプライスの秘密は何なのだろう。

 「メーカーズシャツという名前の通り、商社を通さず中間マージンを除いて、工場と売り場を直結させ、徹底的に中間コストを省きました。会社の名前には“出来立てのシャツをお客様に”という思いが込められているのです。

 さらにシンプルなのは、経理のシステムだ。この会社は、業界の常識である「手形決済」を一切使わない。「月末締めの翌末オールキャッシュ。先払いがポリシーです。自分たちの給料が出なくても、取引先への支払いをきちんとすることで、両親がこの商売を始めた時から、コツコツと信頼を勝ち得てきました」。

 商社を通して担保を得て仕事をしたいという縫製工場が多い中、ひたすら先払いをきちんと続けたことで、業界の信頼を得ることができた。今は「直接やりたい」と工場の方から申し入れがある。現在は全国7~8カ所の工場と提携している。

 しかしキャッシュフローは厳しい。現金商売では運転資金の額が莫大になる。そのキャッシュフロー管理をしているのが、経理を一切任されている長女の貞末さんなのだ。父親はアイデアマンで、母親はそれを形にしていく役目。

子供時代、両親と

 しかし両親は、経理はあまり得意ではない。アイデア先行で両親がどんどん進んでしまうのを、後から娘は1円単位まで帳尻を合わせていく。「最初にお金が足りないことに気づくのが私です。両親も私も、自分の口座から振り込んで支払いに間に合わせたこともありました」。

 最初は小額で取引を始め、1000万円、多くて2000万円でのやり取りくらいが、ある日を境に急に伸びるのが会社という組織だ。「取引額が突然5000万円になり、お店がまた増えると、突然9ケタ、1億円を超してきたりする。そのたびに銀行からの借入金額も増えます。そんな瞬間に、やはりとても怖さがあった。でも、一瞬悩みますが、1日寝ると『悩んでもしょうがない。前向きに行こう』という気持ちになる。多分そこが、会社を続けられる秘訣なのかな」。

 貞末さんが経理担当としてメーカーズシャツ鎌倉に入ったのは97年、25歳の時だ。95年に横浜ランドマーク店がオープンしたのち、毎年1店舗ずつ増やしていた当時は、まさに急成長のただ中だ。


鎌倉本店では、倉庫風のボックスにシャツを収納している(写真:山田 愼二)

 女子大卒業後、地元の信用金庫に3年勤めたとはいえ、「秘書だったので札勘(さつかん=札束を勘定すること)もやったことなかった」と言う貞末さん。そんな彼女に両親が望んだのは「信用できる、通帳を預けられる人が欲しい」ということだった。貞末さんの仕事ぶりに関しては、母親のタミ子さんの信頼も厚い。

 「奈名子は任せたことは必ずきちんとしますし、情報収集や整理などがしっかりできる。私の不得意分野でも、何かあった時は奈名子に依頼すると間違いなく最後まできちんとやってくれます」。母にとって貞末さんは、25歳から一緒に経営を担ってきた、頼もしい戦友でもあるのだ。

 「小さな頃から、食費は削ってもおしゃれにはお金をかけるという家でした」と、貞末さんは子供時代を振り返る。両親は、60年代からアイビーブームを牽引した石津謙介率いるVANに勤めていて出会った。母は退職して鎌倉の家で子育てに専念していたが、おしゃれの教育は厳しかった。

 「まさか、そんな格好で出かけるの?」

 貞末さんが出かけようとして玄関を出る時の服装が、納得のいかないコーディネートだと、母親からチェックが入る。「すぐに着替えなさい」。母に逆らうと、家から出してもらえないほど厳しかったという。

 小さい頃の貞末さんは、ピンクのフリルや女の子らしいヒラヒラした服が着たかった。でも、いつも親から着せられるのは、ネイビーのジャケットにシャツなど、トラッドばかり。「子供心に、どうしてこういうものばかり着せられるのかと思いました」。


聖心女子大学時代、ゼミ仲間と(左端が貞末さん)

 貞末さんの子供時代の夢は、「全身、自分の好きなものだけを着たい」ということだった。しかし、単品を見て「かわいい」と思うものも、全身そればかりで揃えてしまうと、おかしい。「洋服のコーディネートには、引き算も足し算もある。それを両親から教わりました。私は、こういうことを親に言われるのは当たり前だと思っていたのですが、よく考えたらそんな教育って、珍しいですよね」。

 親子喧嘩の一番の種が、ファッションに関することだったのだ。

 VANが70年代後半に会社更生法の適用を申請した後も、父親はアパレル関係企業に勤めた。「いいものを着なさい」というのが、両親の教えだった。

 92年にバブルもはじけ、不景気の中、アパレルメーカーに勤める父親は、現在のメーカーズシャツ鎌倉の原型とも言える企画を立てる。しかし、勤めていた会社では企画が通らなかった。父は、「このコンセプトは間違っていないはずだ。自分でやってみようと思う」と家族に相談を持ちかけた。


シャツには、VANの創業者石津謙介氏の手書きのメッセージタグがついている
(写真:山田 愼二)

 「実を言うと、当時私は、父はどうかしちゃったんじゃないか、と思うぐらいびっくりしたんです。私も弟たちもまだ学生で、この先どうなるのだろうと。でも、のんきな母は『やってみたらいいんじゃないかしら』と言う。そこで両親は、今の本店の近所にあるコンビニエンスストアの2階を借りて、店舗を始めました」

 父親はサラリーマンのままなので、母親が社長。父親が素材選びから企画したシャツを工場で縫製してもらい、母親が売るという小さな商売だった。人を雇うほどの余裕もない。店舗も目立たない場所なので、最初の顧客は母親のPTA仲間やテニス仲間、学校時代の同級生など、地元での人脈が頼りだった。会社名に鎌倉を入れたのも、鎌倉生まれ、鎌倉育ちの母のアイデアだった。

 店舗は小さくても、夢は大きい。父親はいつも「世界に羽ばたくビジネスマンを応援したい。海外でも、どこに出ても恥ずかしくないような格好をして、『日本のビジネスマンはできるんだぞ』ということを見せてほしい」と言っていた。

 ビジネスシーンでも、スーツの下に着るものひとつで、その人の雰囲気はがらりと変わる。安物のヨレヨレのシャツを着ているか、いいものを着ているか、Vゾーンの印象ひとつで、全く違う。

 しかしシャツは消耗品だ。どんどん着て、洗って、ダメになったら、そんなに高いものではないので、また買い直してほしい。そのための価格設定は重要だ。

 「米国のトラッドのメーカーを参考にしました。当時、ランズエンドのシャツを日本円に換算すると4900円ぐらい。その価格帯は創業当時から変わりません。価格は自分たちの都合で決めるものではない。お客様が納得して出してくださる金額で、というのが父の考えでした」


メーカーズシャツ鎌倉本店の概観
(写真:山田 愼二)

 そのコンセプトが当たり、小さなコンビニの2階の店舗には口コミでどんどん顧客が増えた。年間270日、1日6時間営業で年間3000万円を売り上げたという。バブル崩壊後の不景気の中、会社は順調に発展し、創業3年で父親の良雄さんも勤めていた会社を辞め、メーカーズシャツ鎌倉の仕事に専念することになる。

 95年には横浜ランドマークへの出店の話が来て、鎌倉と横浜の2店で年間5万枚を売る店に成長した。「日本で生地を買って、日本で縫製して、丁寧に作って、でも価格は抑える」というコンセプトがヒットした。

 それまで良い品を身につけてきたが、バブル崩壊で安い価格で手に入れたい、という顧客のニーズに合致したのだ。同じように、生産から販売までを行うメーカーとしては、ユニクロも同じ時期に売り上げを伸ばしてきた。

 大学当時から、両親の仕事の立ち上がりをつぶさに見ていた貞末さん。卒業して就職した湘南信用金庫に2年10カ月勤めた頃、両親から「会社を辞めて、手伝ってほしい」と言われた時に、すぐに銀行を辞めて家業に入った。最初は売掛金、買掛金という用語も知らなかったが「習うより慣れろ」で勉強と経験を積み重ねてきたからこそ、今がある。事務所ではずっと父の隣の席で、毎年1店舗ずつ増えていく会社のすべてを見てきた。

 現在、仕入れや取引先を飛び回る父親と、店舗を担当する母親に代わり、事務的処理の全てを仕切り、経理、広報、出店企画、さらに2000年からオンラインショップも立ち上げた。


 家族で仕事をしていると、信頼関係があるのはいいが、煮詰まる時もある。時にはいさかいもある。数年前、貞末さんは出店に関することで、父親と大喧嘩した。大きなショッピングセンターへの出店に関してだったが、貞末さんは、「ここでは売れない」と主張した。

 「根拠はないんです。勘なんです。父はそこに店を出したがったが、敷金、在庫などもあるから、出店は大博打です。失敗したら夜逃げしなくてはいけないかもしれない。だからこそ、確信できない限り、反対します」

 父親と対立する娘。その時、母親は娘の側についた。「その代わり、もっといいと思う場所を自分で探してきなさい」と父親に言われ、貞末さんは出店場所を自分の足で探しに行くことになる。

 (後編に続く)


貞末奈名子(さだすえ・ななこ)
1972年、鎌倉市生まれ。清泉女学院、聖心女子大学を経て、湘南信用金庫に入社。97年、父が創業し、母が社長を務めるメーカーズシャツ鎌倉に入社する。

■変更履歴
記事掲載当初、2ページ本文中で「メーカーズシャツ鎌倉はすべて日本製。」としていましたが、正しくは「メーカーズシャツ鎌倉は、一部商品を除きほとんどが日本製。」です。お詫びして訂正します。本文は修正済みです。 [2009/04/01 16:30]
日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総合研究所 大塚葉が担当した記事を再掲。