北は北海道から南は九州・沖縄まで、小さなものまで含めると30万以上あると言われる日本の祭り。そこに欠かせないのが、神輿を担ぎ、祭り囃子を奏でる老若男女が身に纏う半纏だ。思い思いの背紋や腰柄をあしらった色とりどりの衣装が日本の風物詩を一段と盛り上げる。

 岩手県花巻市にある伊藤染工場は、そんな祭礼用半纏などのデザイン、染色、縫製を手がける老舗企業だ。1921年、現在社長を務める伊藤純子の祖父である伝蔵が創業し、現在まで綿々と伝統を守り続けてきた。

伊藤染工場社長の伊藤純子(写真:稲垣 純也、以下同)

 「様々な染物がある中で、当社の専門は『印染』(しるしぞめ)と呼ばれる分野。見栄えのする模様や固有の文字、紋章を色鮮やかに染め上げるのが真骨頂で、祭礼用半纏以外にも、大漁旗や寺社向けの幟、身近なものでは酒屋さんの前掛けなども印染の技術でつくられています」と伊藤は説明する。

 ほかの伝統産業同様、染物の世界もまた技術革新や後継者不足により衰退のさなかにあり、印染も例外ではない。そうした中、伊藤染工場は22人の社員を抱え、年商は1億5000万円。家族経営の零細事業者が多いこの業界では“大手企業”だ。工場を覗くと、20~30代の若い職人たちがさっそうと布を染め、デザイナーはパソコンを前に新たなデザインの構想を練っている。そこに“滅びゆく伝統産業”の姿はない。

 伊藤は59年、2代目社長である父、益吉の長女として生まれた。益吉は12人兄弟の長男で、良い意味でのワンマンタイプ。最盛期の60~70年代には50~60人の社員を雇用し、事業を拡大した。その補佐的存在だったのが母の淳。呉服販売部門のトップとして家業を支えた。両親ともに多忙だったが、伊藤は工場の中を走り回ったり、職人に遊んでもらったりしながら、会社の成長とともに育った。

 「当時の伊藤家は7人家族のほか、住み込みの社員5~6人がともに暮らす大所帯。朝昼晩いつも十数人で食卓を囲んでいた。職人さんが染物をする姿、染料のにおい、工場の裏手に流れる川の流れの音…。すべて生活の一部でした」と伊藤は振り返る。


 ただ、家業に愛着を持ちながら、伊藤は自分が会社を継ぐなどと考えたことは一度もなかった。2人の兄がいたうえ、早い時期から長男が後継者候補として決まっていたからだ。実際、長男は学業を終えると、岐阜の染物業者の元で修業し、伊藤染工場へ入社。それに伴い、次男は東京の大手メーカーへ就職、伊藤も都内の短大を卒業後、実家へは帰らず、東京にある自動車販売会社で働くことになった。

 就職して1年後に伊藤は帰郷して会社に入ることになるが、これは母が心臓の手術を受けたためだった。

 「実家に帰ったのは、病気の母の面倒を見るのは当たり前だと思ったからです。母の身の回りの世話をするのに都合がよかったので会社に入りましたけど、商品の販売を手伝った程度。当時、本業の染物には、一切関わりませんでした」

 伊藤が家業に深入りしようとしなかったのは、幼い頃染物の世界の厳しさをその目で見ていたからだ。父・益吉は仕事に対して妥協がなかった。工場に一歩入れば、職人たちへの厳しい指導が始まり、つい先ほどまで和気あいあいとしていた工場の空気は一変した。

 女がおいそれと入れる世界じゃない。これが家業に対する伊藤の正直な気持ちであった。その後89年に母が亡くなり、伊藤はなりゆきで会社の呉服販売部門の責任者になったが、その気持ちは変わることはなかった。

 しかし96年、伊藤の運命を劇的に変える事態が発生する。バブル崩壊後、景気悪化と市場の縮小で社業が傾き始める中、父はがんに侵され、後継者の兄が急死したのだ。このまま跡継ぎ候補が現れなければ、会社は廃業せざるを得ない。伊藤染工場は、創業以来の危機を迎えた。

創業者である、伊藤の祖父(左)と父

 絶体絶命のピンチに立たされながら、それでも父は経営への意欲を失わなかった。何とか体を動かせるまでに回復すると、愚痴をこぼすこともなく、気丈に現場に立ち続けた。そんな父の姿を見ているうちに、頑なに家業を継ぐことを拒んでいた伊藤の気持ちに微妙な変化が生じていく。

 父ががんを患って間もなく、ボイラー技士の資格を持つ社員が定年を迎えることになった。ボイラー技士の資格を持つのは、父とこの社員の2人だけ。「このままでは本当に会社が止まってしまう」と考えた伊藤は、自ら進んで資格の勉強を始める。

 そして、ボイラー技士の資格取得を境に、伊藤の中の事業継承への思いは揺るぎないものになっていった。

 「始業前の朝3時、4時に起きて勉強しているうちに、なぜか自然と『自分が父の跡を継ぎたい』という気持ちがわいてきたんです。伊藤染工場があったからこそ、私はここまで生きてこられたんだ。この土地と自分の中に脈々と受け継がれているもの、これを途絶えさせてはいけない、って」

 父の益吉は長男亡き後、次男が後継者として戻ってきてくれるのではないかという一縷の望みを捨てられずにいた。だが、毎朝5時半、誰よりも早く工場へ来てボイラーのスイッチを入れ、1日の仕事の準備をする娘の姿を見て心を決める。

 伊藤が専務に就任し、後継者になる準備を本格的に始めたのは、長男が亡くなってから約1年後の98年。40歳の時だった。そして、伊藤染工場が創業80周年を迎えた2001年、同社3代目社長に就任した。

 「当時の私にあったのは『何とかしたい』という思いだけ。経営の怖さを知らなかったからこそできた。今だったら、やっていなかったかもしれませんね」

 伊藤染工場を取り巻く環境は、悪化の一途をたどっていた。伊藤が専務に就任する数年前から赤字を計上。知り合いの経営者に決算書を見せると、「何も手を打たなければあと3年でつぶれる」と断言された。

 跡を継ぐと一度は決めたものの、厳しい現実を知ったその日から伊藤は眠れなくなった。しかし、もう後戻りはできない。

 そんな伊藤に救いの手を差し伸べてくれたのは、同業者の集まりである「全国青年印染経営研究会」の仲間たちだった。「全国青年印染経営研究会」は1972年、「印染という伝統を守っていくためには、会社の垣根を超えて、技術を共有し、新しい市場をともに開拓していかねばならない」という理念の下に設立された団体。この会の初代会長こそほかならぬ伊藤の父・益吉だった。

 かつてのリーダーの娘の窮地に多くの仲間が伊藤の指南役に名乗りを上げた。「染物の基本から会社運営のイロハまで経営に必要なことの多くはここで学んだ」と伊藤は話す。

 そうして企業経営の知識が増えていくうちに、伊藤は会社がなぜ赤字に転落したのか、その理由が少しずつだが見えてきた。一言で言えば、それは時代とのずれだった。伝統を重んじるあまり、製造から販売まであらゆる仕事の進め方が旧態依然のままだったのだ。

 印染はまず文字や紋章のデザインを起こし、その型を作製するところから始まる。この頃先進的な経営を目指す同業他社の中には、文字・紋章はパソコンでデザインし、型も機械で切り抜く会社が出てきていた。

 従来のように職人が手描きでデザインを描いたり、彫刻刀で型を彫ったりするよりはるかに効率が上がる。しかし、伝統的な製造方法を過剰に重んじた伊藤染工場には1台のパソコンもなかった。

 経営の近代化は、誰の目から見ても伊藤染工場が存続するための必要条件だった。だが、それを推し進めようとする伊藤の前には、伝統に何よりこだわる古参職人との軋轢という新たな壁が立ちふさがっていた。

(後編に続く)

(文中敬称略)


伊藤純子(いとう・じゅんこ)
1959年、岩手県生まれ。昭和女子大学短期大学部卒業後、日産系自動車販売会社に就職。母親の看病のため1年後に帰郷、家業の伊藤染工場へ入社する。専務を経て、同社が創業80周年を迎えた2001年に社長に就任。現在に至る。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総合研究所 大塚葉が担当した記事を再掲。