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 岩手県花巻市の、伊藤染工場。社長を継いだ末娘の伊藤純子に対する職人たちの風当たりは、想像以上に厳しいものだった。

 ほとんどの職人が伊藤より年配で、印染に関する知識もキャリアも上。会社の古い体質を改善すべく伊藤が新しいことを取り入れようとしても一様に消極的で、印染の模様の作成工程にパソコンを導入しようというアイデアも、実現には難航を極めた。

伊藤染工場社長の伊藤純子(写真:稲垣 純也、以下同)

「職人が自らの手で型を彫り、魂を込めて文字を書きつけてこそ印染。コンピューターで模様を作るなんてもってのほかだ」

 多くの職人は、伊藤が何かを提案すると、二言目には“伝統の重要性”を口にして抵抗した。彼らは徒弟制度の下、長い時間をかけて、先代や先々代から技術をたたき込まれてきた世代。自分たちの仕事のやり方に強いプライドとこだわりを持つのも当然だった。

 確かに「伝統」は大事かもしれない。でも会社を存続するためには何より「革新」が大切だ。どうしたら職人たちに、古いやり方を見直してもらうことができるのだろう――。伊藤の苦悩は数年にわたり続いた。

 そんな時、ある事件が起きる。2001年、染料の調合を担当していた職人が工場で倒れ、職場から長期離脱することになったのだ。「門外不出」をよしとする染物の世界では技術の共有化が遅れており、その職人以外に染料の調合方法を十分に知る者はいなかった。

「手が空いている者はおまえしかいない。同業の染屋に頭を下げて、おまえが直接やり方を聞いてこい」。そんな父の指示によって、伊藤は「全国青年印染経営研究会」のメンバーである仙台市の同業者の元へ向かう。

 “染屋の娘”とはいえ、販売業務しか経験してこなかった伊藤には事実上、生まれて初めての染物修業。しかし、伊藤が技術を覚えない限り、伊藤染工場の歴史は幕を閉じてしまう。伊藤は必死に基本を教わると岩手へ戻り、その日から見よう見まねで染料の調合を担当した。


工場では、若い世代が多く働く。文字部分におがくずをまいているところ

 この体験が、伊藤にとって大きな転機となる。

 事務所にいると、工場から「染料を立てて(注:調合すること)ください」と1日に何度も呼び出される。そのたびに伊藤は現場に入り染料を調合した。幼い頃から見慣れ、頭では理解していたはずの印染の製造は、実際に体験してみると想像していた以上に厳しい仕事だった。

 冬には、皮膚が切れそうになるほど冷たい水に手をつける。夏場の工場の最高気温は40度を超える。染料を入れた容器は腰が抜けそうになるほど重い。しかし、職人たちは表情一つ変えず、黙々と印染という仕事に打ち込んでいた。

「もう十分きれいに染め上がっているのに、納得がいかなければ何度でも最初からやり直す。どんな些細なことでも、一つひとつの作業に絶対に手を抜こうとしない。改めて思ったんです。印染という伝統技術も、それをつくっている職人のみんなも、なんてすごいんだろう、と」

 伊藤の中で、印染に対する強い誇りが、芽生え始めたのはこの頃からだ。

 昔は地元の祭りで、職人たちが丹精込めてこしらえた自社の半纏を見ても、特に何とも思わなかったのに、現場に立つようになってからは、とても晴れがましい気分になった。

 職人たちを見る目も変わった。そこにいるのは、意思疎通を取ることさえ苦労した「昔のやり方にこだわる頭の固い男たち」ではなく、「頼もしいプロ集団」だった。染料の調合作業もすっかり板につき、気がつくと、伊藤は1日の半分以上を工場で過ごすようになる。

 この時期を境に、伊藤と職人たちとの距離も自然に縮まっていった。

「きっと『仲間』として認めてくれたのでしょう。私の提案にも少しずつですが耳を傾けてくれるようになりました。それまでは、印染への誇りも、職人さんへの尊敬の気持ちも、今よりずっと薄かった。言葉には出さなくても、そんな気持ちが伝わっていたのでしょうね」

 仕事のやり方を巡る意見の応酬がなくなったわけではない。だが、それは、以前の「不毛な対立」ではなく、同じ伝統産業の世界で生きる者同士の「建設的な対話」になった。

 そんな職人たちとの触れ合いを通じて、伊藤が目指す経営の方向性は「伝統と革新の両立」へと大きく変わっていく。

 例えば、手間がかかり、採算面で割に合わないと同業他社がやめてしまった伝統的な染色技法であっても、良質な印染を手がけるうえで欠かせないものは、なんとしても継承することにした。その一方で、デザイン作業へのパソコン導入など、時代に取り残されないために必要な部分は、職人たちの理解を得ながら見直しを進めた。

 そうした伊藤の方針は現在、同社が事業を存続している最大の原動力になっている。

「例えば、『浸染(しんぜん)』という技術は同業他社の多くはやめてしまって、うちの大きな強みになりつつある。伊藤染工場にしかできない文字や紋章も多い。他にない伝統的な技法に魅力を感じて注文を下さるお客様も多いんです」

工場には、昔ながらの型紙や刷毛(はけ)が

 青森県むつ市で毎年8月に開かれる下北半島最大の祭り「田名部祭り」では、50年以上前から、祭りの参加者全員が伊藤染工場製の半纏を身に着けている。2003年に逝去した伊藤の父、益吉は生前、病床の身を押して生まれて初めて祭りを見物。自社の製品が街を埋め尽くす光景を目の前にし、涙を流さんばかりに喜んだ。

 今年、この祭りに参加している5つの団体の中の1つ「義勇組」が工場見学に訪れ、先日、手紙が届いた。

 我々にとりまして「組印半纏」はとても大切なものであり、また誇りでもあります。

 まもなく創立120年を迎える義勇組がこれまでの長きにわたり存続してこられたのも、この「組印半纏」の下に義勇組に籍を置いたすべての者が、一致団結して来た結果だと考えております。まさに「組印半纏」とは、我々の「絆」であります。

伊藤染工場の外観

 今回、その「組印半纏」の製作工程を見学させて頂き、今回の旅行に参加した者全員が非常に感激、感動しております。

 そして「組印半纏」に対する想いをより一層深めることができ、非常に貴重な時間を過ごさせて頂きました。

「必要としてくれるお客様がいる。だから、これからもできる限り伝統を守り続けていきたい。経営の近代化も効率も大切だけど、伝統が途切れたら、お客様や父、伊藤染工場で今まで染物を手がけてきた職人さんたちに申し訳ない。私だって“印染職人”の端くれですから」


(文中敬称略)


伊藤 純子(いとう・じゅんこ)
1959年、岩手県生まれ。昭和女子大学短期大学部卒業後、日産系自動車販売会社に就職。母親の看病のため1年後に帰郷、家業の伊藤染工場へ入社する。専務を経て、同社が創業80周年を迎えた2001年に社長就任。現在に至る。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総合研究所 大塚葉が担当した記事を再掲。