ほどよく脂が乗り、絶妙な塩加減のシャケは、日本の朝食の定番。「あたたかいご飯に乗せて頬張ると、自然に食欲が沸いてくる」と言う人も多いはずだ。

 そんなシャケの中でも、美食家たちが「最高の味」と絶賛するのが、新潟県小千谷市に本社を置く海産物卸会社、魚沼冷蔵が自社ブランドで販売する「甘塩サーモン」だ。

 最高級のチリ産サーモンの切り身に吟味した自然塩の焼塩をすりこみ、真空パックにしたもの。様々な工夫で格別のおいしさを実現し、派手な広告宣伝は一切ないが、口コミで全国に評判が広がった。

魚沼冷蔵社長の小田島美智子(写真:山田 愼二、以下同)

 「素材の質や鮮度はもちろん、切り分け方から調味、包装方法まで、あらゆることにこだわらなければ、お客様に喜んでいただける商品はつくれないんです」。魚沼冷蔵の社長、小田島美智子は明るい笑顔でこう話す。

 例えば「甘塩サーモン」では、最高級のシャケの頭から約3分の2の上質な部分だけを使用。焼いた後、脂が抜け落ちないように、普通の切り身より微妙に厚みを持たせている。機械を使わずベテランの職人が手作業で切り身に切り分け、真空パックにして箱詰めしていくのもこだわりの一つだ。

 「機械化を試みたこともありましたが、すぐに手作業に戻しました。当社では、真空パックにした後、包装の上から中の切り身の形や位置を手で整えています。こうすると、見た目は美しくなるし、異物混入やピンホール(骨で袋に穴が空いてしまう状態)が見つけやすい。それに何より手作業の方がおいしいものができるんです。きっと、作り手の想いのようなものが伝わるからじゃないかしら」


 同社では、シャケ以外の魚の切り身や総菜などの食品も製造しており、「吉雪」というブランドでシリーズ化している。注文の6割は県外からの注文で、料理研究家など著名人のファンも多い。

 海産物卸に限らず中間流通業者は全国的に衰退しつつあり、魚沼冷蔵も本業の年商はピークの半分以下である約6億円に減少した。そんな中で「吉雪」部門だけは年々着実に業績を伸ばしており、直近の売上高は1億2000万円を達成。同社の“希望の光”となっている。

 「『吉雪』を手掛けていなければ、今ごろ会社はもっと厳しい状況になっていたと思う。それに、私自身、経営者としてここまで頑張れなかったかもしれない」

 魚沼冷蔵がある小千谷市は新潟県の中央、越後平野の南端に位置し、街の中心を信濃川が流れる山紫水明の地。小田島家はこの街に江戸時代末期から続く名家で、新潟港に北前船を持ち、北海道の松前藩との交易を手掛ける回船問屋を営んでいた。

 戦後になって祖父の安次が魚沼冷蔵を設立し、冷凍・冷蔵を専門とする倉庫業に進出、その後、父の安一の時代にかけて海産物卸に軸足を移していくことになる。

 小田島は1944年、この家の長女として生まれた。安一は自分の後継者となる男の子を望んだが、授かったのは女の子ばかり3人。「お前が男だったらよかったのに」が安一の口癖で、小田島を後継者としてしつけた時期もあった。

 結局、小田島は高校を卒業後、銀行に5年勤め、67年に結婚。父の安一が次期社長候補に選んだのは小田島の夫だった。ところが、夫は入社間もなく29歳の若さで急逝。ここから魚沼冷蔵の後継者選びは迷走を始める。

 いったんは、亡き夫の代わりに小田島が魚沼冷蔵に入社する話が持ち上がったが、なぜか安一が首を縦に振らず、実現しなかった。

 その後、安一は病を患い会長に退き、義理の弟が社長に就任。“次の世代”を誰にするか決まらぬまま年月が過ぎ、安一は入退院を繰り返すようになった。

 その頃から、安一は小田島に入社を懇願するようになる。夫が亡くなった時に、周囲にかたくなに入社を反対されて以来、魚沼冷蔵の経営には関わらないと決めていた小田島は困惑した。

 「後になって聞けば、当時父は私を会社に入れたかったのですが、ほかの役員に『女なんか駄目だ』と反対され、泣く泣くあきらめたそうです」。安一はトップの座についてはいたが、戦争によって受けた障害を抱えていた。現場を取り仕切る古参幹部に対して、強い態度が取れなかったのかもしれない。

父、安一は障害のある体で社長を務めていた

 死期が迫り、やはり自らの血を受け継ぐ者に事業を託したいと願った父は、81年に急死。葬儀の翌日に受けた、金融機関からの非情とも言える宣告が小田島の背中を押した。「直系の親族が魚沼冷蔵に至急入社し、安一の個人保証を引き継がなければ、融資を引き上げる」と伝えてきたのだ。

 全社員から「美智子さんに入社してほしい」という嘆願書も届き、82年、小田島は38歳にして後継者になることを決意し、魚沼冷蔵に取締役として入社。専務を経て、87年に社長に就任した。

 「『苦労するために入るようなものだ』と、母も妹たちも私の入社には大反対でした。でも家業って、父や祖父はもちろん、社員のみんなも含めて小田島の家に関わった人全員の努力の賜物。その歴史を途絶えさせるわけにはいかない。これは私がやるしかないと思ったんです」


 海産物卸については素人同然の知識しかなかった小田島だったが、経営には多少自信を持っていた。夫を亡くした後、自立の道を歩むべく、地元で損害保険代理店を経営していたからだ。

 明るく面倒見がよい社交的な性格もあってか、契約数は着実に増加。81年には全国で女性初の「特級(一級)代理店」(当時)の認定を受けるなど、業界内ではちょっとした有名人になっていた。

 ところが、保険代理店で培ったノウハウが、魚沼冷蔵ではことごとく通用しない。例えば、代理店では顧客ニーズを探るため、よくアンケートを実施していた。同じ方法で会社や事業に対する社員の声を集めようとしたら、「会社の方向性を決めるのは社長の仕事。社員に聞くなんてとんでもない」という答えが返ってきた。

 仕事の指示を出しても、代理店の社員と比べると動きが遅く見える。「なぜこの会社の社員は私の言うことを聞いてくれないの?」。小田島は経営に対する自信を失い、代理店時代のトレードマークだった笑顔も日を追うごとに影を潜めていった。

 悩んだ小田島は経営者向けのセミナーに通い、経営の基本を一から学び直す。精神を鍛えれば人はおのずとついてくるのではないかと、藁をもつかむ思いで座禅も組んだ。そして、勉強を始めてから数年が経とうとしたころ、一つの結論に達する。

 「結局、代理店時代に社員がついて来てくれたのは、私自身に保険業界での実績があったから。私が一生懸命勉強して頑張ってきたことを周りが知っているから、話を聞いてくれたし、信頼もしてくれた。でも海産物卸の世界では、私は単なる『先代の娘』でしかないし、社員の皆と一緒に何かに取り組んだ経験もない。そんなトップが指示を出したって、傲慢で高圧的としか思われないですよね」

 経営者として社員から信頼を勝ち取るため、そして自分に自信をつけるため、父から受け継いだ海産物卸とは別に、自分で考えた事業を社員たちと一から立ち上げたい――。こうして考えたのが、自社ブランドの開発だった。

 この事業をスタートした91年当時は、夫婦二人だけや単身者世帯から、手間をかけずに調理できる、便利で小容量の食品が求められ始めた頃だった。

 「『良質な魚を見極める技術』と『産地との人的なつながり』という魚沼冷蔵の強みを生かし、とびきりおいしい魚の切り身を一切れずつパックにすれば、きっと多くの人に受け入れられるはずと思ったんです」

 折しも「問屋不要論」が声高に叫ばれ始めた時代。社員の多くも会社の将来に不安を抱えていたのか、小田島の新規事業のアイデアに異を唱える者はいなかった。

 91年、自社ブランドを小売販売する直営店「吉雪」を市内にオープン。素材と製法にこだわる結果、看板商品の「甘塩サーモン」は1つ420円。周囲からは、「小千谷でこんな高級品が売れるのか」という声もあったが、「吉雪」は思わぬところから人気に火がついていく。「贈答用」として県外の富裕層に認知されたのだ。

 「10年来のお客様で、料理研究家の鈴木登紀子先生がうちの商品をマスコミで紹介してくださったことなどがきっかけになって、少しずつごひいきにしてくれるお客様が広がっていきました」

 吉雪が新しい事業の柱として成長していくのに従い、魚沼冷蔵は小田島を中心に少しずつ組織としてのまとまりができていった。社員との会話も以前より増え、事業のあり方を巡り建設的に意見を戦わせる機会も多くなった。

 「私は、社員と一緒に仕事ができている」――。小田島がそう実感したのは、皮肉にも2004年の新潟県中越地震のときだ。

 04年10月23日、小千谷を震度6強の地震が襲う。小田島は余震に怯える高齢の母とともに自家用車の中で一夜を明かし、朝になり初めて目にした惨状に愕然としたが、意気消沈している間もなく通行止めを突破して会社へと向かった。その時、段ボールに書かれていたあるメッセージに気づく。

 「段ボールの端っこに『社長、みんな、私は元気です。元気な人はここに名前を書いて』と、ある社員がメッセージを残していたんです。それから様子を見にいく度にどんどんメッセージが増えていき、私も『みんなまた一から出直しだ。頑張ろうぜ』って書きました。ええ、思いましたよ、いい会社だなって。あのとき、事業を継いで良かったなって」

 電気は数日で回復したものの、水が来ない。魚沼冷蔵では水冷式の大型冷凍庫を使用していたため、3時間ごとに水を補充する必要がある。社員は会社近くの清水からポリタンクに水を汲んで、毎日運び続けた。会社に泊まり込み、深夜も欠かさず1日1500リットル。小田島の指示ではなく、すべて社員の自発的な行動だった。

 地震による被害額は約5000万円。被災後半年間は売り上げゼロ、前年度7割減まで落ち込んだ。しかし、地域や会社に大きな被害をもたらした地震は、一方で、小田島にとって、経営のやりがいと社員との絆を再確認する貴重な機会ともなった。

 若くしての夫との死別、父の病、社員との軋轢、中越地震…。小田島は、多くの苦難を乗り越え、江戸時代から続く家業を守り続けてきた。魚沼冷蔵はこの9月で創業60周年を迎え、長女の綾子が次代の当主として小田島の跡を継ぐ予定だ。

 「何だか苦労の多い人生ですよね(笑)。でも、めそめそ逃げるより、明るく、楽しく、前を向いたほうが気持ちいい。不景気なんてぶっ飛ばしちゃう。大丈夫、人間いざという時には不思議と力がわいてくるものなんですよ」(文中敬称略)

長女で、魚沼冷蔵の次期社長の綾子さんと

小田島美智子(おだじま・みちこ)
1944年、新潟県生まれ。高校卒業後、銀行勤務を経て、67年に結婚、長女誕生。71年、夫が急死。その後、安田火災海上保険に約1年勤務した後、「おだじま保険事務所」を設立。82年、父の逝去に伴い、家業である魚沼冷蔵に入社。87年から現職、現在に至る。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総合研究所 大塚葉が担当した記事を再掲。