インタビュー 情熱と挑戦の先に

【ファンキー加藤】「2年間でダメだったら、あきらめようと思っていました」

全力投球の原点を探る ファンキー加藤氏(音楽家)の場合 第2回

文:十代目 萬屋五兵衛 / 写真:菅野 勝男 01.05.2015

幅広い層から支持を受け、絶頂のうちに解散したFUNKY MONKEY BABYS。元リーダーで今はソロ活動に邁進するファンキー加藤氏の「全力投球」活動の原点を探る。

前回からの続き

「2年間一生懸命、音楽と向き合って、だめだったら俺は音楽はあきらめる」

加藤はFUNKY MONKEY BABYSを結成した時、本当の意味で音楽でメシを食おうと決意した。

「グループ名は、もともと結成する前から自分はファンキー加藤というふざけた名前でちょっとコミカルなラップをしていました。そこにモン吉という名前でラップをやっていたモンちゃんが加わった。だから、これはもうファンキー・モンキー・ベイビーズだろうという安易な考えでつけたんです。結成が20代後半に差し掛かろうとしていましたから『この2年間に懸けよう!勝負しよう。頑張っても2年間でうまく行かなかったらあきらめて、就職する』。いろんな意味でギリギリでした(笑)。

まず、モン吉と今まで毎日ただただ遊んでいた時間を、毎日音楽と触れ合う時間にし、必ず1日に1つ、一歩進めたと実感があるような日々を送ろうと決め、ワンフレーズでもいい。ドラムのキックの音だけでもいい。ベースの1音だけでもいい。とにかく1日1歩進めたという、絶対に1日も無駄にしない日々を送ろうと……。 そして、2人で結成した2~3カ月後ぐらいにケミカルも加入して、3人体制になりました。」

2年間という期限付きの怒涛(どとう)の活動が始まった。

「今でも、本当に頑張ったと言えるぐらいやりました。曲を作って、まずクラブへ行って歌う。3人には3人各々のクラブ仲間やネットワークがありました。それをまず1つに合わせて、全方位体制にして『やれることをやってみよう!行けるところに行こう!』と…。鼻息は荒かったです(笑)。

2年間しかないから、1回のライブも絶対にミスができないという、相当ピリピリしていたと思います。そのピリピリって、メジャー・デビューしてからも長くあったと思います。常に崖っぷちというか『1回のミスが致命傷になる』と考え、追い込んでいました。」

本気で、八王子のクラブや八王子駅周辺の路上などで、日の当たることを夢見ながら過ごした。

この2年間もそうだが、DJケミカルが家業の住職になるという、このグループが解散するまで常に「期限付き」を背負っていたことが、その後のファンキー加藤の「全力投球」や「完全燃焼」という決してスタイリッシュではない、少々無骨すぎる、あの熱い「型」ができたのではないかと思う。

「八王子のクラブやライブハウス、それから駅前の路上でライブをやってました。ある時路上ライブで、たまたま通りすがりのサラリーマンの人が『ライブ良かったよ!これでご飯でも食べて』と言って、ぱっとお金を手渡してくれたんです。『ありがとうございます!』と見たら1万円だったから『いえ、これはもらえません』と返したら、『先行投資。八王子を盛り上げてくれ!』って言われたんです。その時ですね、八王子にとにかく愛着があったし、『俺たちは、東京の都心部のグループとは違うぞ!』って思ったのは……」

FUNKY MONKEY BABYSは地元、八王子の観光親善大使や新宿から高尾山までを広域に結んでいる京王電鉄のイメージキャラクターを務めていた。それほどに、地元八王子を代表するアーティストにまで成長していった。

彼らがライブで披露する曲の中にも『太陽踊り~新八王子音頭~』なる、八王子市民が盆踊りの際などに歌う『太陽踊り(新八王子音頭)』をファンモン流にアレンジした曲が存在した。彼らが行きつけの飲食店には『ファンモン麺』や『ファンモンカレー』など、彼ら自身の名前を冠にしたメニューが存在するほど、地元と密着し、そして地元愛を強く感じさせるグループだった。

そして、いまだに彼らの行きつけの店には全国からファンがやってくる。

「いわゆる新宿、渋谷、六本木界わいの都心で活動していたグループというと、やっぱりスタイリッシュで、ソリッドで、洗練されている感じがあったんです。お洒落だし、ライブスタイルというのもすごくカッコ良かった。

そもそも八王子という街は、市民自体が都心部への強烈で変なコンプレックスを持っている人たちが多いと思います(笑)。東京都民としての自覚ゼロなんですが、都心部の人に『八王子って神奈川だろう?』と言われたら、それはそれで腹立つという非常にへそ曲がりの奴が多い街なんです(笑)。だからなのかな?少し変わった奴が多いんですよ」

人は誰でも多少なりにコンプレックスを持っている。ただ、八王子という街は場所柄、特にその傾向が強い市民が多いと、加藤は言う。しかし、実はそのコンプレックスこそが八王子市民のミュージシャンたちには武器になり、特に、FUNKY MONKEY BABYSには欠かせないカラーを生み出したと分析している。

「都心部のグループと同じことをやっていたらのみ込まれるというか、勝てないじゃないですか。なので、少し戦略を変えないとダメだと……。そういう思考がある土地だったんです。だからDJケミカルという存在は、まさに八王子市民の象徴なんですよ。変な奴の中の変な奴。踊るDJで、ターンテーブルに一切触らないという『アクの強さで勝負だ!』と。向こうがスタイリッシュにやるんだったらこっちはちょっと変わったDJを背負って『むちゃくちゃにやってやろうぜ!』ということなんです。八王子出身のミュージシャンはそんな奴らが多いです(笑)。」

FUNKY MONKEY BABYS以外にも、加藤が語る八王子出身の特にミュージシャンやアーティストなどの表現者には、突き出した個性を出したがる傾向にあるのかもしれない。

「23区とは戦えないと思っていました。コンプレックスです。東京03へのあこがれです(笑)。

基本的には八王子、町田、立川あたりでライブしていました。だけど、たまに京王線1本で都心部へ行って、めちゃくちゃスタイリッシュでモテそうな渋谷、六本木あたりのグループと同じ土俵でライブをやっても勝てないから、ケミカルに『踊れ、上半身裸になって踊れ!』と言って、インパクトで勝とうとしてました。正攻法じゃないんですよ、やってきたことは」

※「03」は東京23区の市外局番。八王子は同じ東京都だが市外局番は「042」または「0426」である

そんな個性を出しながら地道にライブを始めたその年の秋、地元の先輩を通じて横浜でライブをすることになった。当時の横浜などを拠点にライブ活動をしていた同じようなラップグループは、ファンモンとは正反対のどちらかと言えば、反骨心を曲にのせて表現することの多いロックに近い硬派なグループが多かった。

「横浜でライブするようになったんです。当時の横浜のクラブシーンというのは、ちょっと怖いイメージを持っていました。自分らがやっていたいわゆる『Jポップ寄りのヒップホップ』がはじかれるような場所だったんです。ましてやケミカルなんてちょっとなめ腐ったDJがいるから、本気で怒られるんじゃないかとビビっていました。

最初、地元の先輩から『お前らもやる?』と言われた時は、すごく迷ったんです。『どうする横浜だぜ…ちょっと空気違うしな…』と言っていたんですけど、そこはFUNKY MONKEY BABYSを結成した当初からあった『どこでもやる、路上でも八王子でも渋谷でも、だから横浜でもやるべきじゃない?』という場所を選ばない姿勢を貫きました。『怒られるんだったら怒られていいよ。もしかしたらそこにチャンスがあるかもしれないし』と言って、案の定、怒鳴られ、批判も浴びながら、でも月に2回くらいのペースでやっていたんです(笑)。

そしたら、ある日、クラブの店長が『お前らいいな』と言って、現在の事務所の社長を紹介してくれたんです。あったんです、チャンスが!」

怖いなと思った街に、実はチャンスが落ちていた。避けていたら、そのチャンスには巡り会えない。

「ああ、こういうところにあるのかと。ちょっとうっとうしいなとか、面倒くさいなと思わず、一歩踏み込めば、もしかしたら何かが起こるというのは、そこで気付きました。だから横浜を断っていたら、たぶんファンモンはないと思います。横浜は、第2の故郷ぐらいの感じでとらえていますけどね」

「あ、スルーじゃない。これは大丈夫かも?」

横浜には硬派なグループが多かったからなのかもしれないが、多くのヒップホップグループが存在していた中で、何とも言えないユルさとアツさが同居したファンモンが、ある意味で目立っていたのだろう。群れの中で際立つための生命力。それが八王子スタイル=個性だった。

「ケミに『裸で踊れ!』と言ってから、もしかしたら音楽よりもパフォーマーとして、ライブの空気をつくるのに関しては自分たちはイケているのかも? ライブパフォーマンスで、その場のイベントで1番のインパクトを残すということは自信あったかもしれないです。

いつも右から左に流れていくようなパフォーマンスは絶対にしない。そういうふうにはならないという自信はありました。良くも悪くも引っ掛かる。良い引っ掛かりは『あいつら面白いな、また聴きたいな』で、悪い引っ掛かりは『あいつら気持ち悪いな、うぜえな』と、どちらかに振れる自信はありました。

だから、横浜に行っていた時は『あいつらムカつくな!うぜえな!』という声がすごくたくさんあったんです。でも、逆に『あ、スルーじゃない。これは大丈夫かも? 引っ掛かっている!イケるぞ!』と思ったし、それがだんだん快感になってきたんです。『またあいつら、イライラしている……』と冷静に感じていられましたから。つまり、無関心でいられるより、イライラさせて、ヒートさせることがアウェーの中でプレイする喜びというか、ヒール役のプロレスラーみたいな存在だ!ってなって……。子供の頃から好きだったプロレスで言えば、タイガー・ジェット・シンの気持ちが分かった気がしていました」

クラブの店長から現在でも所属しているマネージメント事務所の社長に紹介され、初めて一緒に歩む、プロのパートナーができた。もちろんその時点まで、自分たちなりにハイペースで活動はしていたが、そこにプラスして、新しい考えが加わった時、プロという意識が本格的に芽生え始めていた。

「もしかしたら、これで堂々と胸を張って『ミュージシャンです』と言えるんじゃないかと……。それまでは自分のことをミュージシャンとは言えませんでしたから。フリーターですよ。フリーター。時間が余っているときにライブをやっているフリーターです。親には『音楽やるから』と言っていたけど、実はそんなに音楽はちゃんとできていなかったし、音楽で飯なんか食えるとは思えなかったですから……。

自分の中で決心したタイムリミットは、あと1年くらいでした。自信はあるようでなかったです。だけど、FUNKY MONKEY BABYSとして発信する音楽は、ただこのまま終わるはずがないというふうには信じていました。」

加藤は、初めて「自分たちの音楽が誰かに必要とされる瞬間が来るかもしれない」と感じ始めていた。

そして、その勘を感じるたびに、喜びになり、それが原動力となっていった。

家飲み酒とも日記