インタビュー 情熱と挑戦の先に

【ファンキー加藤】「音楽で初めて、自分は誰かに必要とされたんです」

全力投球の原点を探る ファンキー加藤氏(音楽家)の場合 第3回(最終回)

文:十代目 萬屋五兵衛 / 写真:菅野 勝男 01.15.2015

幅広い層から支持を受け、絶頂のうちに解散したFUNKY MONKEY BABYS。元リーダーでソロ活動に力を注いでいるファンキー加藤氏の「全力投球」活動の原点を探る。

前回からの続き

FUNKY MONKEY BABYSは、日を増すごとにファンを増やしていった。作品づくりから、その宣伝方法まで、ある意味で“八王子流”が彼らの武器になっていた。

彼らの曲は非常にポップでわかりやすい。誰もが口ずさみたくなる、どこか懐かしくノスタルジックな香りを持っている。また、そこから発信させられる歌詞=メッセージには、自分よがりの歌い手ではない、聴く側の心の奥深くに沁みわたっていく力を秘めている。しかしそのスタイルは、最初から自然に身に付いたわけではなく、自分流に落ち着くまでには、様々な葛藤があったようだ。

「ちゃんと聴いてくれる人がどうすれば喜ぶか?何を必要としているか?何を必要としてないのか?さらに言えば、クラブに来るような人たちだけじゃなく、それこそロックのライブハウスに来る人たち、さらにはライブハウスとかに来ない人たち、何となくCDを買う人たち、そして音楽にあまり興味を持っていない人たちにまで、どうやって届けるんだ?と考えていました。『自己満足の音楽から、誰かが必要としてくれる音楽へ』変換していくのがとても苦しかった。

それは今もなお、正解なんて分からないですから、ずっと探しているんですけど……。『自分たちのこだわりが、自分たちが大切にしていたものが意外と世間からすれば大したものではないんだな。いろいろと体験して、そこじゃないんだな……』と理解できてきたんです。

例えば、僕らはラップグループを自称していたので、韻をすごく踏んでいたんです。だけどファンモンとして活動してきた中で『加藤さんとかモン吉さんの韻の踏み方がかっこよくてCD買っていました』という人は1人もいないんです。1回も出会ったことないんです(笑)。やっぱり『メッセージがよかったです』とか『メロディーが好きです』というのが圧倒的に多かった。韻を踏むということはラッパーのアイデンティティーだと思っていたから、そこからの脱却に時間がかかりました」

*韻:詩歌で、同一または類似の音を、一定の位置に繰り返し同じ母音の語を用いること。ヒップホップなどの音楽スタイルで多用される。

新曲とは、自分たちのファンを喜ばせるだけではなく、新たなファンを連れて来てくれる、ミュージシャンにとってはとても重要なものだ。FUNKY MONKEY BABYSにとってもそれは例外ではなく、彼らにも数々のヒット曲があり、曲を出すたびに新しい人たちをファンにしていった。その数あるヒット曲の中でも、注目したいのが2009年11月に発売された『ヒーロー』だ。この曲は、これまで彼らのようなグループのファンにはいなかった「父親」という新しいファン層を生み出した。

「この曲は、当時日本テレビの『ズームイン!!SUPER』でアナウンサーをしていた羽鳥慎一さんとの企画で生まれました。『歌で日本を元気にしたい、できれば家族にとっての大切な存在。外で孤軍奮闘している社会のヒーローであるべき存在。そんな日本中の働くお父さんの応援歌をつくりたい』ということになったんです。番組やテレビ局をあげてのプロモーションのおかげで、たくさんのお父さんたちにも広がって、その曲で初めて紅白歌合戦に出場することができたんです」

朝の通勤・通学前にテレビから流れてきたその曲で、それまで、彼らのことを知らなかった父親たちは、自分の子供たちからのメッセージのように背中を押された。そして、彼らの中心的ファンだった10代20代の子供たちは、父親をはじめとした親への感謝の気持ちを再認識した。そんな親子の心の交流を促す機会を与えた曲がヒットしたのは、思春期で言葉を交わさなくなった親子への彼らならではのメッセージだったのかもしれない。

その年末、初めて国民的歌番組である第60回NHK紅白歌合戦に出場した。

加藤家のテレビの前には、両親、兄弟をはじめとした家族親戚が集まり、その勇姿をみんなで観ていた。そして、父・孝則さんの目には大粒の涙が光っていた。

*羽鳥慎一:元日本テレビアナウンサー。愛称はバード。『ズームイン!!SUPER』の司会など多くの人気番組を担当し、2011年3月31日に日本テレビを退社。その後はフリーとなる。

絶頂ゆえのラストスパート

紅白歌合戦の出場も果たし、その後もヒット曲を連発した。たくさんの賞も獲得した。そして彼らの歌には、たくさんの甘く切ない“青春風景”の数々が刻まれていた。それらの曲は、多くの人たちの応援ソングになり、いつしか彼らの定番のスタイルになっていた。

数年の間に、世代を超えたファンでいつもライブ会場は超満員。気が付くと、彼らのライブチケットは入手困難なプレミアチケットになった。彼らの存在は全国的に知れ渡り、誰の目にも人気の絶頂期ともいえるグループとして映っていたに違いない。しかしメンバーは知っていた。FUNKY MONKEY BABYSには期限があること、終わりがあることを。

「ずっと頭の片隅にはあったんです。ケミカルというあのインパクトのある存在は、絶対にこのグループに必要不可欠でした。結成当時から『いずれ僕は住職になります』と言われていました。でも当初は『あ、それでもいいよ』って言っていました。正直そんな何年も先のことなんか考えられなかったんです。せいぜい考えられても1年先ぐらいのものだから……。

ただ、それでずっとやってきて、2007年にテレビ朝日の看板歌番組『ミュージックステーション』に初めて出演できたし、2009年に日本武道館でライブもできた。その年末には『紅白歌合戦』にも出られた。そうやって一つひとつ夢見ていたことが現実になっていけばいくほど、少しずつケミカルのあの時の言葉が頭の中で大きく響いてきました。『そういえばあいつ住職になると言っていたな……どうするんだろうな……』と。

ただ何となくでしたが期限はありました。だからこそ、ファンモンは20~30年続くグループではなく、おそらく10年前後だろうなと思っていたから、休むことなく全力で走って来れたんだと思います。

ある日、ケミカルから『もうそろそろ……』と打ち明けられました。俺とモン吉は地元の先輩ということもあって、やはり言いづらかったんですね。めちゃくちゃ悩んで、言ってくれたことに対して、『ああ、ついにその時が来たか…。よし、じゃあ、これから第4コーナーだな。最後だ!ラストスパートだ!』という決心が、その時固まりました」

2012年11月、FUNKY MONKEY BABYSは解散を発表した。最終ゴールは、翌2013年6月2日の東京ドーム公演。

メンバーを含め、全てのスタッフ、そして日本のみならず世界中に広がったファンたちが、加藤の言う第4コーナー、そして最後の直線とその先にあるゴールテープをはっきりと確認していた。

「俺らのアイコンとしてDJケミカルがいたんです。だから、ケミカルが抜けて、2人でやるという選択肢はありませんでした。『ケミカルが抜けるんだったら、ファンモンも活動休止でも、2人で続けるでもなく解散だ』って。だから、ファンモンとしてのゴールテープを一番よい形で切りたいと考えました。どうせ切るんだったら、誰もやったことないぐらいのところまで行ってやろうと思っていました」

ガムシャラという言葉がぴったりだった。第4コーナーを回ってから、更にその活動のスピードは上がっていった。もう時間がないという焦りと、これが最後のライブだと思い、全国各地を周った。

加藤は、ステージに立つと常にその舞台を全力で駆け抜け、オーディエンスを盛り上げている。そうして、いつもステージ上で酸欠状態になる。

「ショッピングモールでのライブからそうでした(笑)。手抜きではないんですが、もう少しバランス良くやろうとかができないんです。体に染み付いちゃったものなので……。ケミカルは変な感じで踊り、モン吉は飄々(ひょうひょう)と歌う、そして、俺が全力で倒れるまで歌う。それで、何かバランスが取れていたと思うし、これが俺たちのスタイルだったんです。

でも一時期、こんなライブスタイルを始めた自分を恨みました(笑)。ツラくて、ツラくて……。特にFUNKY MONKEY BABYSの最後のツアーの時は、今まで以上にボロボロになりました。各会場がラストライブみたいな感じでやっていたので、一切手なんか抜けません。連日連投で向かえたあるライブでは、開始30分前になっても、モン吉は疲れて思うように声が出ない、俺は体力の限界で動けない。中止にするか続行するかで相談し合っていたんです。会場内には既にお客さんがたくさん入っていました」

疲労困憊(こんぱい)になりながらも、ライブを中止することなくツアーは進んだ。

「もう本当に毎日、ボロボロでした。でもゴールが見えているから、走り切れたんだと思います。マラソンも途中で苦しくなっても、沿道の人たちがいて応援しているから、ゴールではきっと誰かが待っていてくれたりするから頑張れるじゃないですか?同じように全国に、俺たちに別れを告げに来てくれていたファンのみんながいたから、手を振って、笑顔で応えて、ゴールを目指していました」

(提供:(株)イドエンターテインメント)

2013年6月2日。最終ゴールの東京ドームのステージで、加藤が観たその景色は夕焼けのようにオレンジ色に輝いていたという。

「高校から20代中盤までのポカンと抜けた『暗黒時代』、謳歌できなかった青春時代が、ちょっと遅れてそこにあった感じです。その時期を俺は必死に取り戻していたような感じがしました。“校舎と夕焼け”みたいな感じです」

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