ネオンとオンナ

令和的ミーハーはインターネット食物連鎖の頂点に立つ

文:鈴木 麻友美 06.25.2019

友人で「ミーハー百獣の王」リサ(仮名:31歳)というのがいる。SNS上では圧倒的努力&多動主義で、仕事の名言をつぶやいたりオラついている。そんなミーハーな人物が象徴するのは、牧歌的なネット世界の、「フォロワー」で計られる資本主義的な世界への移り変わり。オラオラな世界から距離をおきたい人々はどこに行けば良いのか。かつてのネット世界に思いを馳せる、「ネオンとオンナ」最終回。

「ミーハー」って言葉は今も昔も、人をマウントする際に使われがちで、そもそも昭和の「一億総白痴化」(大宅壮一の警句。今の「一億総活躍」の源流がこれだと思うとしみじみしますね)と時を同じくして現れ、にわかファンを揶揄した意味で一般化したらしい。

しかしなんとなく思うに、今時のミーハーという言葉の使われ方は、以前とは変化している。「潮流や流行のヒト・コトに必ずのっかる」という姿勢を徹底的にとっているのだけれども、実はその対象物は激しくマイナーチェンジ(アップデートともいう)していて、しかし本人はそのことに気がついていないという滑稽なさまを揶揄するのに使われているような気がする。

アップデートを繰り返した結果、対象物はもはや本人が好む性質を備えていなかったり別物にすり替わっていても、実態に気がついていない。それがゆえに他者から揶揄の対象となるのかもしれない。

なぜこうなったかというとやっぱりネットは便利で残酷。観察対象となっている個人の言動が「点」でなく「線」で定点観測できる時代になったからではないだろうか。

夫婦と友達はミーハー度合いが同じだとうまくいく

私は自分のミーハー心を、出したり引っ込めたり勝手に出たり、一貫しない状態のまま持て余しながら生活している。本職のマスメディアの仕事と、DJ活動と、趣味である食や旅の嗜好と、それぞれの土壌でなんとなく一番都合のいい具合のミーハーを出そうとしている(時々コントロール不能)。

ミーハーの度合いなんて定量評価はできないので相対評価するしかないが、たとえば夫と私は仕事や交友関係においては私の方が下品なくらいにミーハーだけれど、音楽や旅などいくつかのジャンルではミーハー心の強度やベクトルが近い。周囲を見渡してもその度合いが近い人がつるんで生息していることが多い。

ジャンルは細かく違うがヲタ同士、とか、そんな人たちもそのものに向かうミーハー度合いが近ければ「なんだこいつ」というストレスが少なくうまくやっている気がする。

「あいつ!?刺激になるわ~!私もがんばろっと~」

私の友人で、私の知る限りの最強のミーハー強度を備えた「ミーハー百獣の王」リサ(仮名:31歳)というのがいる。常時全方位フルスロットルで容赦ないミーハーだ。

(仕事評価はさておいて)SNS上では圧倒的努力&多動主義で、仕事の名言をつぶやいたりオラついている。でも、会えば優しく気のいい愉快な女で、たまに飲む。ちなみに先日、別の友人に「まゆみちゃんはいつも人を評するときに『ネットではアレだけど会うといい人』っていうけどそれさ~今時人として当たり前のことだからね、だからあなたは人を見る目がないって言われるんだよ」と怒られた(複数回目)。そのとおりで私は学習能力と人を見る目がない。

そんな話はさておき、百獣の王リサに話を戻す。

彼女の飲み会に呼ばれた時、ヒップホップ好きに全然見えないヒップホップファッション男性(職業はよくわからない横文字だった)がずっと、「〇〇ちゃん知ってる?フォロワー85万人の?仲いいんだよ~」「最近買った時計が〇〇界のドン〇〇さんとおそろでさまいっちゃったよ」とずっと著名人や何かのドンの話をしていた。

時折何かの事象をほめるときに「それ超ヒップホップじゃん!」と言うので、「ヒップホップお好きなんですか。お召し物的に西海岸?」とからんでみたところ「なにそれ?EDMと日本語ラップしか聞かないし」と言われ、滑った私の心はそこで帰宅してしまいそのあとのことは覚えていない。彼と私の好きなものと、ミーハーの出しどころの土壌がズレた事故だ。彼は「イケてて売れてるヒト」しか眼中になく、私は彼が「例え話」のツールとして持ち出した「音楽」が好きだったという目的と手段のズレとでも言っておこうか(号泣)。

後日、百獣の王リサと会話していた時、話題はヒップホップ風お兄さんの件に及んだ。私は百獣の王リサに対して「なんか、あれだね、彼は、なんというか、昔のネオヒルズ族みたいだね」とごにょごにょと感想を述べた。するとリサは私の感想の意味がさっぱりわからないという感じで「え?あいつ!?がんばってるし上目指してるし、最近超有名なんだよ!刺激になるわ~!私もがんばろっと~」と言っていた。

私の敗北である。「そういうのは領域外でして」「ちょっとそれは品が」といった、どうにか保とうと思っているちっぽけな品性や矜持、こだわりみたいなものは、無邪気に燃やしつくされ灰さえ残さず、先方からみたら「無」だ。「品」みたいなものは時にはないほうが、いろいろ伝わりやすいっぽい。その点、鈴木涼美さんが先日書かれた「イタさを恐れない人は強い」(集英社Webメディア「よみタイ」の鈴木涼美さんコラム記事はこちら)に全力で同意です。

特殊なガチヲタの方々は日々こういう気持ちなんだろうか。こじらせを嫌というほど思い知らされるのが辛いのであれば、そういう土壌にいかなければいいのに、ついつい覗きに行っては、心だけ先に帰宅してしまう。新卒以来マスコミュニケーションを生業としている軸足によるのかどうしても体が勝手にそちらに挑みにいくが、港区女子時代にはハイスぺウェーイ系合コンにたまに挑んではほぼ毎度、この敗北というか「無」を味わった。

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