ネオンとオンナ

今こそ食に、おじさんポエムを

文:鈴木 麻友美 12.28.2018

「美食家」が集まる会食で得た違和感。食に対するストイックさ加減に居心地の悪さを感じる中、「食べログポエム」が愛おしくなった。おじさんの自己満足などといじられたこのポエムだが、食分野における肥大したスコア主義、そしてフォロワー数至上主義なネット社会から俯瞰すると、アンチテーゼな香りを嗅ぎ取ってしまう。

『―夏の残り香と、この浅草の街の歴史の香りがまじり、小生の心は高揚する。

駅前のビル群の合間の小さな空を見上げる、今日は十六夜か。

十六夜と言えば、まだ大学で文学の端くれを齧っていたころガールフレンドが……(以下略)』

こんな冒頭から始まる、「食べログ」の口コミ投稿。1スクロールするころ店内に入店し、2スクロール目でやっと実食がはじまる。

一時期、「食べログポエム」といじられ、おじさんの自己満足などと言われながら私も笑って読み流していた。そして平成が終わろうとしているこのタイミングにおいて、食べログポエムが非常に尊く感じている。とりわけ実食以外の情報量が多いポエムに、今のバビロンなインターネッツ世界が失いかけている大切なものがたくさん詰まっているんじゃないか。

美食家とライトなインフルエンサーの狭間で

美食家を称する人が増えた。食の体験を記録・発信できる場が増えたこともある。もちろん美食家なんて直球の言葉で自称しないけど、予約困難店や地方の高級店づくしの「食系インフルエンサー」が勃興している。「#予約困難店 #ミシュラン #住所非公開 #取材禁止の店」的な世界。

ひとつのお店を深堀って語るというよりか、スタンプラリー的にたくさんのお店を渡り歩く。写真と共にそえられる感想(キャプション)は「さすが」「最高」などライトなものが多い。

点数で評価している人も見かける。かつての文豪や文化人みたいに様々な知識や教養をバックボーンに食を語る、みたいな世界とは違う、「ネオ美食家」とでも呼ぼうか。ある企業の社長が、会食の店の予約などをさせる専属の「食のアシスタント」を公募したことも話題になった。

自分もつい数年前に本コラムで「鮨で体感年収をあげる」だなんて書いた。昔だったら行かない層が背伸びして高級鮨に通うという話。あの頃からさらに鮨屋や有名店の予約のとれなさ具合は加速しているし、私は今もなけなしの給料を握りしめ背伸びした店にたまに出かけ、拙いコメントとともにインスタにあげている。

何度か、美食を趣味としそれを軸につながる集まりに参加した。料理の感想や産地の話はそこそこに、話題は最近人気を博している別のレストランの話題、どこどこの誰が独立した、予約とれた、こないだ〇〇(店の名前)のお会計がひとりウン十万だった、などなど。

すごい世界があるもんだな~ストイックだな~と思いつつ、心の中の私は鼻をほじっていた。鼻をほじっている悪人が幅を利かせてこようとする最中、片隅に一応いるとても小さい善人が、「じゃあお前は何が聞きたい?内澤旬子のような風習や文化背景?山口瞳や北杜夫のような旅情やロマン?待て待て披露できるような教養と場数をまず自分が持ち合わせてから言えや」といなしてくる。

単に、家族や気の置けない友人らとの食事時にあるような、食材に紐づく土地や音楽や奇祭やら、はたまた自分が恥をかいたエピソードなどなどの与太話が恋しくなったのかもしれない。あるいは、食卓を囲んでいる他者が理解できるように、違う分野とおのおのが好きなものを絡めた会話の投げ合いとか。

心の悪人と善人が小競り合いを開始して自己嫌悪に陥ったところで、ふと、突然、食べログポエムが愛おしくなってきたのだ。

市井の個人による自己表現と、食という最も人間の基本的な欲求に沿った活動が結びつき、独特の世界を醸し出すアレ。ある世界において、生きていく(というよりサバイブというニュアンスか)のに必要ないもの、そういう余白や遊びは楽しい。

ポエムおじさんたちが意図しているかどうかはさておき、「フィールドの逆張り戦略」も食べログポエムの存在感を際立たせているかもしれない。食べログは飲食店のプラットフォームだからこそ、食以外の情報が目立つ。結果的にポエムはポエムとして「映え」る。逆に、ライフスタイルや自撮りなど自己表現の場であるインスタグラムだと、ストイックな飲食店スタンプラリーが「映え」るというわけ。そもそも、飲食店にいる時に別の飲食店の話をするのは逆張らない以前に無粋な気もする。

「この人にしかとれないレアな予約」も尊いけれど、ネット上でその情報を受け取る側としては、「この人にしか言えない表現」を拝みたくなるんだろうなぁと思う。

カンパネラナイト