プロフェッショナルに聞く

「コウジキン博士」と旅する、奥深き発酵の世界

世界に誇る「和食文化」は“飼いならされた麹菌”によって生まれた

文:松田 慶子 / 写真:大槻 純一 10.29.2018

鹿児島県霧島市にある“奇跡”の発酵食品とは?

世界各地の発酵食品に詳しい中島先生が、“奇跡”と称賛する発酵食品がある。それは、鹿児島県霧島市の福山町周辺で作られる黒酢だ。

福山町の黒酢は、かめ壷の中で造られるため、別名・壷酢(つぼす)とも呼ばれている。壷造り醸造による酢つくりは、福山町では200年も前から受け継がれてきたが、世界的にも非常に珍しい製法とされる。長い醸造期間を費やし、熟成が進んだ黒酢は美しい琥珀色で、香りもよく、味はまろやかで芳醇。全国の料理店などで使用されているほか、飲料としても使われている。

酢は、日本酒やワインなどのアルコールを、酢酸菌によって酢酸に変えることでつくられる。酢酸菌は、酵母と共存することの多い菌だ。

「酢酸菌は好気性菌、つまりお酒を酢に変えるときには酸素が必要です。しかし酵母は嫌気性菌、つまり、米からアルコールをつくる段階までは酸素はいらない。福山の黒酢は、この相反する2段階の発酵工程を、1つの壺の中で完結させます。人が手を加えなくても自然に切り替わるなんて、不思議でしょう?」

鹿児島県霧島市の福山町でつくられる黒酢は“奇跡”と称賛する中島さん

種明かしは、こうだ。まず壺に麹菌が生えた蒸米と水を入れ、その上に、振り麹といって、乾燥した麹をパラパラと振り入れる。振り麹は水面に浮き、やがて繁殖した麹菌が水面全体を覆って空気も雑菌もシャットアウトする。その間、水中では空気を嫌う酵母が働き、アルコール発酵が進む。その後、ある程度アルコール濃度が上がると、表面張力が下がるため、表面の麹菌が浮いていられなくなり水中に落ちていく。すると壺の表面が開放されて酸素が通るため、酢酸菌が活動を開始する──。

「振り麹は、世界でもここにしかない技術です。これを確立した人は天才ですね」と中島さんは絶賛する。

もうひとつ、中島先生が注目している発酵食品が、石川県金沢市周辺に伝わる、ふぐの卵巣のぬか漬けだ。こちらはその旨みの解明にサイエンスが追いついていないという点で、目を引くのだという。

「ふぐの卵巣には猛毒が含まれていますが、塩で漬けた後で糠漬けにすると、2年以上かかりますが毒が抜けて食べられるようになる。でも、どの工程で何の微生物が働いて毒が消えるのか、完全には分かっていないんです。ムダな工程もあるのかもしれないけれど、怖くて一切省けない。実験できませんからね(笑)」

世の中の発酵食品人気もあって、中島研究室は女子率の高い農学部の中でも女子が多く、6割を占める

かつては虫好きの野生児!? 国菌で水環境を改善する

麹菌の魅力に心を奪われた中島さん。東京都でも緑豊かな羽村市の出身で、小さいころから生き物が好きで、「虫取り網を片手に駆け回る野生児」だったという。

発酵に関わるようになったのは、東京大学の農学部に入ってからのこと。

「発酵微生物を扱う研究室があると聞いて行ってみたら、面白そうだと。微生物の中でも麹菌に興味を抱いたのは、研究生活に入ってからですね。おそらく日本で一番役に立っている微生物です。流通を含めると、GNP(国民総生産)の約1%が麹菌がらみなんですよ。それに、麹菌は日本にしかいないので、国内にいながらにして最先端の研究に触れられるというわけです」


これほど昔から生活に密着している菌であるにも関わらず、麹菌はまだまだ解明されていない部分が多く、そのことも大きな魅力という。

「先ほどの福山町の黒酢のように、伝統的な発酵食品がいかに理に適っているかを、科学が後追いで裏付けている、というのが現状ですね。どの微生物がどういうふうに働いているのか、サイエンスの立場で保証しているのです」という中島さん。古来より、日本人は失敗と成功を繰り返しながら発酵技術を磨き、職人の手によって技術が伝承されてきた。その営みのうえに、世界に誇るべき今の和食文化があるのだ。

今、中島さんが注目しているのは、麹菌の発酵とは違う性質だ。

「麹菌の構造のなかで、空気中に出ている部分は、ハイドロフォービンというたんぱく質に覆われています。これは、いろいろな物質の表面にがっちり吸着するという性質を持ちます。そこに重金属に吸着する機能をもたせて、水質浄化に役立てるための研究に取り組んでいます」(中島さん)。麹菌先進国ニッポンならではの技術であり、一日も早く実用化することを期待したい。

好きなお酒は日本酒。好奇心旺盛で、世界各地の発酵食品を食べている。麹菌の話をするときは本当に幸せそうな表情に。

農学博士 中島春紫さん
明治大学 農学部 農芸化学科 微生物生態学研究室 教授。1960年、東京都羽村市生まれ。1989年、東京大学大学院農学研究科博士課程修了。同大学院農学生命科学研究科助教授、明治大学農学部助教授を経て、2007年より現職。現在の主な研究対象は麹菌のたんぱく質。発酵技術や発酵文化全般に詳しく、近著は『日本の伝統 発酵の科学』(ブルーバックス刊)。そのほか著書に『おもしろサイエンス 微生物の科学』『トコトンやさしい 微生物の本』(日刊工業新聞社)などがある。
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