インタビュー 情熱と挑戦の先に

【DJ KOO】月5万円、ガテン系、小室哲哉との出会い、そしてTRFへ

裏にあるのは地道な取り組み:DJ KOO氏(TRFリーダー/サウンドクリエイター)の場合 後編

文:十代目 萬屋五兵衛 / 写真:的野 弘路 02.04.2016

音楽グループTRFのリーダー、サウンドクリエイター、そしてバラエティ番組の出演者として活躍するDJ KOO氏。後編では、小室哲哉氏との出会いとTRFの躍進、そして今に至る道程をたどる。

前回からの続き

(本文敬称略)

母の死去。THE JG'sの自然消滅。KOOはこの時が「精神的に一番つらい時期だった」と振り返る。

「仕事が全くなくなってしまいました。あっても月に2回程度のDJの仕事で、月収5万円くらいでした。もうその時は結婚もしていましたから、生活費も稼げない状態です。

自力ではどうしようなくなったその頃、ディスコ時代に知り合っていたDJ仲間が清掃業の会社を立ち上げていて、『人手が足りないから手伝わないか?』と、行き場を失ったDJたちに声をかけていたんです。僕はDJとして少しは名が売れていた自負がありましたが、背に腹はかえられませんでした。

DJ時代には考えられなかったような、朝7時ぐらいから夕方5時まで働きました。東京競馬場の電光掲示板からパチンコ屋さん、体育館の屋根など、いろんな所をきれいにしていましたよ。ウエス(タオル)を頭に巻いて、道具が入った腰袋を下げて、まさにガテン系でした」

せっかく買いそろえたリミックス用の機材も、生活費の足しにするために手放した。

自分の未来への希望を失いかけていた。

少しでも音楽につながる仕事をしたいと思いながら過ごしていた、そんな時である。旧知のDJ仲間から、「今度、横浜のベイサイドでイベントがあるからDJをやらないか」という誘いがあった。

「再びDJができる」。KOOは2つ返事で受けた。

そのイベントは、人気音楽ユニットTMN(当時はTM NETWORK)のメンバー、小室哲哉のイベントだった。

小室哲哉との出会い

1990年代初頭、小室哲哉が所属していたTM NETWORKは、シンセサイザーを活用した音楽ユニットとして絶大な人気を確立していた。かつ、当時の邦楽シーンにおいてはユーロビートをはじめとした海外のダンスミュージックに一番近いポジションであるとも言われていた。

KOOが苦渋を味わっていた頃、小室は日本のダンスミュージックの市場が成熟しつつあり、音楽シーンの次の軸になりえる可能性を察知していた。当時最先端と言われていたディスコであるジュリアナ東京や、一時代を築いたマハラジャなどに足しげく通い、次の新しい音楽シーンへのアイデアを膨らませていた。そして、TMNのコンサートが全国各地で行われると、コンサート終了後に各地のディスコで自らDJをし、その場で新人ヴォーカリストの発掘オーディションを開催していた。

そして小室は横浜港の外れにあった、横浜ベイサイドクラブにも来た。そのイベント名は『TK Rave Factory』。頭文字を抜き出すとTRFになる。

KOOがDJ仲間に誘われたのはこのイベントだった。久々にDJをするKOOにとって、人生のターニングポイントとなったのだが、その時は知る由もなかった。

「小室さんのことは、名前を知っている程度でした。同じ音楽でも、全く違う世界の人でしたから。

僕らDJからしたら、小室さんは『邦楽の人』という見方でしかなかったんです。だから、そのイベントで何をするのかさえ見当もつきませんでした。ただ有名人であることに違いなく、声をかけてくれた友人と一緒に、イベント参加の挨拶をしに、小室さんが作業しているレコーディング・スタジオに向かいました。

作業中だった小室さんとはあまりしゃべらなかったのですが、初めて見る小室さんのレコーディング作業を見て、『この人は、ここまでこだわるんだ』とすごく感動したんです。僕もTHE JG'sの頃はかなりこだわった作業をしていたのですが、それ以上にすごかった。自分はどこかアイドル的な人気を集めていた小室さんを、少し見下しているところがあったんだと思います。それもあり、自分の浅はかな思い込みを痛切に恥じました」

もっとこの人から学ぶことが沢山ある。

イベントが始まる前、「この出会いだけで終わりたくない」と思ったKOOは、躊躇(ちゅうちょ)することなく行動に出る。

「小室さんの制作環境や音楽的な考え方などは、今まで関わってきた自分の世界とは全く違っていました。いろいろな部分で触発され、この人から多くを学びたいと思って『スタジオにまた行っていいですか?』と聞いていました。

そこからかつてのDJの見習い時代のように、給料のあるなしに関わらず、勝手に“押しかけ人”として、毎日スタジオに顔を出し始めたんです(笑)」

小室の持つ音楽に対する深い知識や秀でた才能を目の前にして、KOOはクリエイティビティをかき立てられ、どうしようもない衝動にかられていた。10代そして20代前半の時、ラグビー部やDJの世界へと踏み込んだのと同じように、ただただ飛び込んでいった。

覚悟を決めた音信不通のロサンゼルス旅

「押しかけアシスタント」時代のKOO(右)。小室哲哉氏と(写真提供:DJ KOO氏)

こうして「押しかけアシスタント」をしていたKOOは、小室から指示を受けた。「制作中の音源の中に、ラップを入れてほしい」。ラップはDJ時代から培ってきたKOOの得意技である。KOOは、その音源が『trf(筆者注:当時は小文字表記)』という新しいスタイルのグループのファースト・アルバムに使われるとは、その時は知らなかったという。

「trfはシングル『GOING 2 DANCE』、アルバム『trf~THIS IS THE TRUTH~』でデビュー(筆者注:1993年2月)するのですが、セールスはそれほど芳(かんば)しくありませんでした。当初はイベント限定的な活動が多く、またメンバーも大勢いまして、企画性が強いグループでした。自分自身も固定メンバーとして所属しているなんて、考えてもいなかったんです。あくまで僕は小室さんのそばで音楽作りを学ぶ自称“弟子”という意識でした」

そんな状況下、2ndシングル「EZ DO DANCE」のレコーディングがロンドンで行われた。もちろんKOOも帯同していた。

「そのロンドンの制作現場で、前作と同じようにラップを入れました。作業が一通り終了しロンドンから小室さんは香港に行き、僕は小室さんからの提案で、ロサンゼルスに1人で寄ってそこから帰ることにしました。

当時、見習いであったり、trfの活動に参加していたりと、はっきりしない自分の立ち位置に内心、不安を感じていたんです。家庭もありましたから……。そんな自分の気持ちを整理したかったタイミングでした。

答えが出ない、そんな煮え切らない自分を感じながら数日が過ぎていました。数日が経った頃、海岸線を自転車で走りながら、持参していた小室さんのソロアルバムを聴き始めて、1曲目の『Omoide o Okizarinishite』という曲がヘッドフォンに流れ始めた時です。『こんなすばらしい曲をつくる人のそばにいるのだから、もっとしっかり付いていこう。腰掛けではダメだ』って強い確信がわいてきたんです。それからですね、迷わなくなったのは……」

それまでのDJやTHE JG'sの経験を通じて、決して自分の思うようには進まない人生というものの難しさを感じていた。家族を持ち、30歳を過ぎていた。

夢と現実が交差する中、決意が固まった瞬間だった。

自分の居場所を家族に伝えるのを忘れるほど、数日間、音信不通の状態だったという。連絡のないKOOを心配して、家族からレコード会社に捜索願いが出ていたことをKOOは後で知った。

家飲み酒とも日記