インタビュー 情熱と挑戦の先に

プロレスラー 永田裕志──「負けの経験はプラスにも転ず」

栄光と挫折の狭間で知った本当の強さ 中編

文:十代目 萬屋五兵衛 / 写真:山田 大輔 04.12.2017

チャンスに全力を尽くす

デビューから3年が経った1995年。迷いを断ち、「自分のプロレス」を追い求めていた永田にとって、大きなチャンスが巡ってくる。

当時、プロレス団体であるUWFインターナショナルと新日本プロレスの間には、遺恨があった。UWFインターナショナルは独自のスタイルの確立を目指して新日本プロレスから分裂した団体で、人気を誇っていた。2つの団体同士がぶつかり合う対抗戦が、10月に東京ドームで行われることが決まり、「全面戦争」と言われるほどに注目されていた。

その前哨戦が9月に行われることになり、永田に白羽の矢が向けられた。新日本プロレスを代表するレスラー・長州力のタッグパートナーとして選ばれたのだ。永田は当時、長州力の付き人をしていた。

「長州さんのパートナーは試合直前まで『X』としてしか、発表されていませんでした。試合当日のスケジュールでは、僕は第1試合に他の選手との試合が組まれていて、まさか2試合はないだろうと思っていました。

その試合に勝利をして控え室に戻ると、長州さんが俺のもとに来て『Xはお前だよ!』って(笑)。驚きました」

残念ながら試合では負けたが、両団体同士の意地が象徴したような、濃厚な試合だった。若手だった永田の闘いぶりを目にしたファンや関係者たちは、永田を見る目が大きく変わった。

永田もプロレスラーとしての確かな手ごたえを感じていた。

「結果として負けたとしても、チャンスと捉えて全力を尽くしていれば、絶対マイナスにはならない。後々ものすごいプラスにも転ずるということを実感しました」

アメリカ修業でつかんだもの

1997年、永田はアメリカのプロレス団体「WCW(World Championship Wrestling)」に遠征する。海外修業に行くチャンスを待っていた永田にとってはまたとないチャンスでもあった。しかし、渡米しても試合は簡単には組んでもらえずにいた。

そんなある日、日本とアメリカを行き来していた先輩レスラー・蝶野正洋がWCWを訪問した。永田は蝶野が日本から来た当日、帯同してWCWの試合を観に行った。すると永田はWCWから試合に出るよう、声をかけられた。ある試合の選手が会場に来られなくなり、代役を探していたのだ。

「自分の試合がなくても、会場には必ずコスチュームを持参するのはアメリカでは当たり前のことでした。だから、代役をやってくれと言われました。

全く試合の準備はできていなかったんですが、その試合が好評価を得られ、それがきっかけで多くの試合に出場のチャンスを与えてもらえるようになりました」

「重要なのは、どうやってアピールをして自分の力を認めてもらうかです。自分でチャンスを作って、それを活かさなければ誰も見向いてもくれません。待っていたら誰かがやってくれるなんていう甘い世界ではありませんでした。

アメリカで学んだことは、チャンスは自分で作って生かす。それは自分自身をどうやって売っていくかという『自己プロデュース』の大切さでした。これがその後、プロレスラーとして生き抜き頂点に登りつめるための知恵になったんです」

永田は、1年半の間アメリカを主戦場にして戦い、人気レスラーに成長し、日本に帰ってくる。精神的にも肉体的にも、海外で養ってきた実力は大きなものになっていた。久しぶりに日本のリングに立っていた永田は、観客に向かって言った。

「IWGPヘビー級決定戦には、俺が挑戦する」

IWGPヘビー級王座決定戦とは、「プロレス界における世界最強の男を決める」というコンセプトの下に、1983年に誕生したもの。永田はこのチャンピオンベルトを獲りに行くと宣言したのである。

しかし、それがすぐに手に入るほど甘い世界ではない。永田がベルトを手にすることができるのは、そこから3年以上も先のことであった。

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