インタビュー 情熱と挑戦の先に

【妙義龍】下積みから頂点へ、そして「ゼロ以下」からスタート

カベと向き合い挑戦する:妙義龍(関取/力士)第2回

文:十代目 萬屋五兵衛/写真:陶山 勉 07.21.2016

その筋肉質な体から、「アスリート型相撲取り」と呼ばれる力士・妙義龍。独特なアプローチで角界の頂点を目指す現役力士・妙義龍の姿を通じて、カベと向き合いながら挑戦する生き方を読み解く。(全3回)

前回からの続き≫

(本文敬称略)

高校進学を控えた中学生の妙義龍に声をかけてきたのは、高校相撲競技全国大会の常連校で名門の埼玉栄高校だった。

「その頃、埼玉栄高校は全国大会の常連校で、何度か日本一に輝いていました。でもそんなことなども知りませんでした。声が掛かっただけでも、うれしかった。だから、一度その環境を見に行こうと母と埼玉県まで行きました。稽古を見て、食事をいただいて、先生と話をしたのですが、内心、在校生の先輩たちの迫力に『こんな世界は、自分には無理だ』とたじろいでいました。

するとその夜、宿泊先のホテルに先生から電話があり『風邪をひくなよ』とかいろいろと優しい声を掛けてもらい電話を切ったんです。しかし、電話を切ってすぐに自分から電話をかけ直して『埼玉栄に行きます。よろしくお願いします』と言っていました。母にも何も言わずに……」

突発的に起こした行動だった。稽古を見て、監督に会って、怖じ気づきながらも自分の波長が合うものを感じ取っていた。「自分を信じて、飛び込む勇気が必要だと思ったんです」と妙義龍は当時の心境を振り返る。

ひたすら下積み、最終学年でチャンスつかむ

「入学したのは間違ったかなという思いはありました(笑)。この高校は、運動能力が優れたアスリートの卵たちが全国から集まってきていて、どの部活も、日本一を目指しているんです。

僕には、それまで日本一を目指すという目標を持ったことはありませんでした。ましてや、また自分が所属している相撲のチームが日本一になるのをこの目で見たこともありませんでした。

当然、1年生は雑用係です。朝から洗濯機を回し、稽古は先輩たちとのレベルが違い過ぎて、ひたすら木の柱を手で打ち押し込む“鉄砲”という練習の繰り返しです。試合に出ることなんてありませんでした。

両親は、音を上げて実家に帰ってくると思っていたらしいのですが、僕には辞める考えはありませんでした。雑用や稽古で考えるひまがなかったというのが本音なのですが、相撲のことばかり考えていたんです。全国で活躍している先輩たちを見ていて、そのメンバーに入りたいと本気で思うようになっていました」

その相撲部には、同級生で今も同じ境川部屋に所属する現大関・豪栄道がいた。

「豪栄道関は僕とは違い、小学生の頃から“わんぱく相撲”でも優勝していたぐらいの実力の持ち主で有名でした。もちろん1年生から試合に出場できるくらいでしたから。1年生は全部で6人いたのですが、2人がマネジャーで4人が選手でした。2チームに分かれて、僕と豪栄道関が同じチームでした。

洗濯、ちゃんこ鍋を作る手伝いはチームでやっていたのですが、試合に出場する人は免除されるんです。つまり、豪栄道関は免除されて、結果、僕1人で全部をやらなくてはいけなかった。悔しかったです。でも、それが相撲の世界ですから。1日でも早く試合に出られるようにと、歯を食いしばっていました」

試合に出場している先輩や同級生の活躍を見ながら“鉄砲”を続ける日々が続いた。

2年生になっても公式戦には出場できなかった。そんな日々の中、最終学年になる直前にチャンスが回ってくる。

「高校2年生の2月、全国大会の個人戦のメンバーに入れてもらえました。でも1回戦負けです(笑)。もうチャンスはないなと思っていたら、次の3月にも別の全国の大会があって『これが最後にチャンスだ』と監督に言われ、躍起になって挑みました。

なんとか準決勝まで勝ち進んだのですが、その相手がよりによって豪栄道関でした。その一戦は、取り直しをするほどの接戦だったのですが、結果は惜敗でした。

でも、その大会の優勝は豪栄道関で、僕は全国で3位になれたんです。日本一になった選手と激戦を繰り広げられた満足感もあり、夢のようでした。次の日に新聞を買って、すぐに両親に送りました(笑)」

その大会を終えた時に、「お前、何かが変わったな」と監督から言われた。自分では、何が変わったのかはわからない。だけど、何かをつかめたような気がしていたのは確かだったという。

8月には全国高等学校総合体育大会(通称インターハイ)がある。そこでは相撲の個人戦における優勝者、「高校横綱」が決まる。

しかし、その大会の各都道府県の出場枠は3人と、かなりの狭き門。妙義龍が在学する高校だけでも3人以上のライバルがいた。しかし、一皮むけた妙義龍は違った。県大会で3位に入り、インターハイ出場の切符を手に入れる。

「大会会場の土俵の横には高校横綱の証しである綱が飾ってあるのですが、そういう意味でもインターハイは、どの選手たちでも優勝をしたい、一番気合いが入る大会でした。

3日に分けて団体戦や個人戦を行うのですが、合わせると10試合くらいはやらないといけないのです。それに準々決勝くらいからはレベルが一層高い選手が生き残っていきます。どこかのチャンピオンになったことがあるような選手ばかりが相手でした。

でも自分は数カ月前までの自分とは違っていました。土俵際まで追い詰められながらも一発逆転の投げが打てたり、それまで想像できなかったような力を発揮したんです。そしてまさかの決勝戦までたどり着きました。

相手は、またも豪栄道関だったんです(笑)」

妙義龍は、以前よりも強くなった自分を確信していた。最強のライバル豪栄道を前にして、チャンピオンベルトである綱への欲求がいっそう高まった。

ライバルに惜敗、しかし団体戦で日本一へ

しかし結果は、前回と同じく惜敗だった。思わず涙がこぼれた。改めて、高校横綱への道の険しさを思い知らされた。

「敗れていじけていた時に、監督から『個人戦のことは忘れろ。明日の団体戦で日本一になれ!』と喝(かつ)を入れられました。泣いている場合ではなかったんです(笑)」

翌日、高校横綱と準優勝者を率いる埼玉栄高校は、見事、団体戦でも優勝を飾る。

個人の部の優勝から3位まで。そして団体戦の優勝と、その年の埼玉栄高校はインターハイ完全優勝という日本一の高校になった。

日本一など想像だにできなかった妙義龍と、3年生にして団体で日本のトップに立った妙義龍。2年生まで試合にも出たことがなかった妙義龍は、自分の相撲が変わった瞬間を振り返る。

「監督に『お前は、鉄砲で日本一になるんだ』と言われ、鉄砲を打ち続けていました。手の皮がむけて血だらけになり、その血を拭きながら、痛さで泣きながら木の柱を打ち続けていると、体の使い方が変わり始めるんです。

もっと重さが乗って体重を乗せられるようになれば違う音が出ると指導されて、音を頼りに毎日、ひたすらに打ち続けていたんです。上半身も下半身も全部使うことで、鉄砲が完成されていくことに気づきました。

自然に全体がパワーアップし、“相撲力”が付いていたんです。1年の時に90kg以下だった体重は3年のときには125kgぐらいにまで重くなっていました」

ピルゼンアレイ