インタビュー 情熱と挑戦の先に

父親にその場しのぎで「ジャズミュージシャンになります」と言った後──菊地成孔(音楽家)

菊地成孔 音楽家、文筆家、音楽講師(前編)

文:十代目 萬屋五兵衛 / 写真:山田 大輔 11.20.2017

音楽、文筆と幅広く活動しているミュージシャン・菊地成孔。直近では生と死をリアルに描いたアニメ作品「機動戦士ガンダム サンダーボルト」シリーズの音楽を制作。映像と一体的な世界の表現を通して、その才能を世に発している。菊地の才能の源はどこにあるのか。過去と現在に目を向ける。(前編、敬称略)

菊地成孔(きくち・なるよし)。ミュージシャン。直近の仕事として注目すべき一つが、人気SFアニメシリーズ・機動戦士ガンダムの最新作「機動戦士ガンダム サンダーボルト」シリーズの音楽制作だ。同シリーズは小学館の雑誌「ビッグコミックスペリオール」で連載中。単行本は累計発行部数 140 万部を誇る大ヒット作品である。

菊地は昨年のアニメ放映シーズンに引き続き、本シーズンも引き続き音楽制作を担当。11月15日にはオリジナル・サウンドトラック『機動戦士ガンダムサンダーボルト 2』が発売された。

『機動戦士ガンダムサンダーボルト 2』LPジャケットイメージ

サンダーボルトでは「リアル・ロボットアニメ」の草分けとなったガンダムシリーズの名に沿うように、登場人物の生と死が壮絶に描かれている。菊地はこの作品において、ジャズやラテンミュージックなど多様なジャンルにまたがる音楽センスを発揮。作品の各所にそれをちりばめることで、物語、登場人物、音楽の3要素を一体的に見せている。

実際、菊地の才能は音楽分野にとどまらない。彼の公式Webサイト「第3インターネット」のプロフィールページには、楽器演奏のほか、クラブDJ、映画やテレビドラマの音楽活動、著述活動、ラジオやテレビ番組のナビゲータ−など、多数の肩書きが記されている。

多様な側面を見せるアーティスト・菊地成孔の才能の源を探るべく、過去と現在に目を向ける。

DNAに刻まれていた故郷の風景

数年前まで、菊地は「新宿・歌舞伎町の住人」と呼ばれていた。そう、本当に彼は“世界有数の歓楽街”のど真ん中に住んでいたのである。

「実は、歓楽街は好きではなかったんですよ。あんな場所に住むのはダメだと思っていました。それよりも前はもっとお洒落に暮らそうと考えていて、自由が丘に住んでホームパーティーとかもやっていたんです(笑)。

でも、肉体的にも精神的にも、なぜか合わなく、具合が悪くなってしまって……。そういう暮らしは、自分にとっては“アウェイ”だったんです」

そんなアウェイな土地に住んでいた頃、菊地の独特な文章力に目をつけた出版社から執筆の依頼が来た。ホテルの部屋に一定期間こもり、執筆に集中するべく缶詰生活を送ることになる。

「場所は歌舞伎町がいいと、僕の方からリクエストをしました。しかし、風紀的にもあまりオススメできない場所のホテルしか用意ができないので、担当編集者からは反対されたんです。でも、直感的に『絶対にそこにしてくれ』と我がままを言って、部屋をおさえてもらいました」

部屋の壁は薄く、隣からはアジア諸国の言語が聞こえてくるような部屋だった。しかし、どこか落ち着く自分を感じていたという。

夜、飲み物を買いに外出すると、自分の中に眠っていた古い記憶がよみがえった。

「きらめく夜の歌舞伎町。めぐるめく懐かしさ、いきなりこの街に“ホーム感”を感じ、なんで自由が丘なんかに住んでいるんだろう?ここしかない、と思い、引っ越すことを決めたんです」

菊地が嫌っていたはずの歓楽街は、精神的にも肉体的にも合っていた。なぜなら、彼の体の隅々にまで、故郷の風景がDNAのように染み付いていたからだ。

菊地は1963年、港町として栄えた千葉県銚子市に生まれる。実家は両親が切り盛りする日本食の飲食店だった。

「親父は、日本料理の板前でした。僕は小さい時から店を手伝わされていました。

兄貴がいたのですが、年が14歳も離れていて、両親は、やっとできた念願の次男である僕に、店を継ぐことを期待していたんです。

本来なら、兄貴がその期待を受けて教育をされているはずなんですが、どちらかというと早々と自分の生き方を決めていた、自由な放蕩(ほうとう)息子でした。結果、兄貴は作家として大成するんですけど……」

菊地の兄は、後にベストセラー作家として大成する菊地秀行である。『吸血鬼ハンター“D”』が代表作だ。

よく親父とけんかをし、勘当されていたという兄の姿を見た菊地は、兄とは真逆の方向に育つ。

「僕は、兄とは正反対の性格でした。親の言うことを聞いて、親が動揺したり、悲しんだり、親には迷惑をかけないようにするタイプの子供でした。自分の中に両親の思い通りになるんだという考えがありました。ですから、露骨な反抗期もなかったと思います」

4歳から5歳の頃にはホール係として店に立ち、『いらっしゃいませ』とお客を迎え、注文を取り、料理をテーブルに運んでいた。小学生になると出前の配達までもするようになる。配達先は、近所の映画館の受付や映写技師、あるいは開店準備中のスナックのバーテンたちだった。

小学生の高学年になる頃には厨房に入り、魚のさばき方などの細かい調理技術を仕込まれた。

菊地には、公園などで友達と遊んだとか小学生らしい遊びの記憶は少ない。その代わり、自身の原風景の一つだと言い切れる故郷の光景がある。それは、店で毎晩のように起こるけんかだった。

「当時の銚子は、遠洋漁業の漁師たちの港町であり、また歓楽街として栄えていたので、地元を仕切る任侠(にんきょう)的な人たちが群雄割拠していた時代です。血気盛んな荒くれ者が多かったので、毎晩のように大なり小なり何かもめ事が店で起きていました」

昼夜に限らず“大人の世界”を見てきた幼少時代。その時代に刻まれた世界観が、その後の菊地が生み出す作品の中にかいま見られる。

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