1600社余りの社史の企画編集に関わってきた出版文化社社長・浅田厚志氏が三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム「危機に負けない長寿企業の経営に学ぶ」から、人気記事を転載する。今回は、長年交流のある稲盛和夫氏の人柄について語る。

稲盛和夫氏の人柄に触れた40年
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大みそかの前夜

 1981年12月30日、京都の京阪本線丹波橋駅より歩いて十数分の所にある稲盛和夫氏の邸宅に着いたのは、夜の8時を少し回っていました。筆者の記憶では12月30日は晴天になることが多く、この日も登り坂から空を見上げると、星が輝いていました。大きな玄関にはすでにしめ飾りが付いていて、お正月の準備が整っているようでした。

 私は大阪の小出版社の一介の雑誌編集者でした。その出版社の社長が不渡り手形を出した経緯を社員に告げた後、支援をいただいた経営者にお詫びに行くというのです。私は社長の親族でもないのに、「一緒に連れていってください」と頼んで同道しました。1軒目は大和ハウスの創業者・石橋信夫氏の従兄弟・石橋殾一(しゅんいち)氏の奈良・学園前の自宅。応接室に、見たことのない大きなテレビがあって驚きました。そして、2軒目は冒頭の稲盛氏宅でした。稲盛氏が48歳、筆者は24歳の時でした。

 和服姿の稲盛氏は、応接間兼居間のような大きな部屋の大きなテーブルに、いっぱいの資料をひろげておられ、大きな配線図のようなものがあったので、後年に振り返ると、第二電電(現KDDI)の構想を考えておられたタイミングではなかったかと勝手に推測しています。

 うなだれて不渡り手形の経緯を語る社長に稲盛氏は、「出版社にとって出版はビジネスであって文化活動ではない。文化財事典シリーズのような企画はビジネスがきちんと成立している出版社がやるべきこと」とピシャリ。「京セラでは朝日新聞社と一緒に京都の冷泉家文庫の支援をしている。文化活動は、そのようにこそ行われるべきもの。1冊の本が当たったからと言って、それで図に乗って文化活動をするなんて、もってのほか」と詳しくその思いを語られました。

 私は社長とは姓が違うので、親族ではなかろうと理解しておられたと思いますが、稲盛氏は社長の隣でひたすらに耳を傾けている私の顔をチラチラ見ながら話されていました。その時の言葉は、1年半後に出版社から独立し、自営を始めた筆者に大きな示唆となりました。