戦国武将に学ぶ、経営の要諦。歴史作家の河合敦氏が、三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム『戦国武将の才覚』から記事を転載する。今回登場する戦国武将は、天下人、豊臣秀吉。

写真/豊臣秀吉像、狩野光信筆 高台寺蔵
写真/豊臣秀吉像、狩野光信筆 高台寺蔵
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人間は感情の動物

 寒い冬の日、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は、主君・織田信長の草履を懐であたためたことで、信長に目をかけられ出世の糸口をつかんだという逸話はよく知られている。たぶん後世のつくり話だと思うが、秀吉が「人たらし」といわれ、他人の心をつかむのが得意だったのは確かである。

 秀吉の前半生はよくわかっていないが、少年時代に家を飛び出して職業を転々とし、苦労してようやく駿河の大名である今川氏の武将・松下加兵衛に仕えることができたといわれる。

 賢くて気が利いたので、秀吉は松下家の金銭出納役を任されるようになったものの、結局は同家を追い出されるはめになった。その昇進を妬んだ松下家の家臣たちが秀吉に意地悪をしたり、加兵衛に悪口を吹き込んだりするようになったからだ。いじめられても秀吉はくじけなかったが、加兵衛のほうが滅入ってしまった。「このまま秀吉を雇い続けたら家臣団の結束が乱れる」と思ったのだろう。加兵衛は秀吉を解雇したのである。有能であれば栄達できると信じていた秀吉にとっては、ショックな出来事だった。

 以来、秀吉は、人間関係に細心の注意を払って行動するようになる。たとえば長浜城主に抜擢された頃、秀吉は「羽柴」と改姓している。この苗字は、織田家の重鎮・柴田勝家と丹羽長秀からそれぞれ一字ずつをもらいもらったもの。見え透いたごますりだが、人間は感情の動物。たとえ、おべっかであるとわかっていても、勝家や長秀は悪い気はしなかったはず。当然、秀吉もそれを見越して、あえてこんなわざとらしいことをしてまで、重臣層からの反発を和らげようとしたのだろう。

 信長亡き後、秀吉はいち早く天下取りに動くが、1584年、長久手の戦いで徳川家康に完敗して窮地に陥ってしまう。このとき秀吉は、鮮やかな策略を見せた。家康と同盟を結んで敵対していた織田信雄(信長の次男)と単独講和を結んだのである。一説には、単身で信雄の陣営に出向き、涙ながらにこれまでの不義をわびて和睦を求めたという。結果、家康は戦いに勝ちながら、「主家筋の信雄をないがしろにする秀吉を討つ」という名分を失って、兵を引かざるを得なくなった。秀吉は合戦に敗れても、戦略で勝ったのである。それにしても「情に訴えて泣き落とす」この話が事実なら、秀吉は大した役者だ。