戦国武将に学ぶ、経営の要諦。歴史作家の河合敦氏が、三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム「戦国武将の才覚」から記事を転載する。今回の武将は立花宗茂。関ヶ原の戦いに敗れながら奪われた領地を実力で取り戻した。

写真/錦絵、歌川芳虎筆
写真/錦絵、歌川芳虎筆
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「鎮西一」とたたえられた名将・立花宗茂の選択

 立花宗茂の生き方は、人は何度でもやり直しが利くのだということを教えてくれる。

 宗茂が関ヶ原合戦で西軍(石田三成方)に身を投じたのは、ひとえに亡き太閤秀吉の恩に報いるためだった。これより14年前の天正14年(1586年)、島津氏の大軍が当時の宗茂の主君であった大友宗麟の領内へなだれ込んできた。次々と大友方の城や砦(とりで)が落ち、家臣たちが降伏していくなか、一人宗茂だけが攻め寄せる島津の大軍をたびたび奇襲で翻弄し、相手が撤退すると猛追して撃破したのである。このときまだ、宗茂は20歳であった。

 援軍にきた豊臣秀吉がこの奮戦を知ると、宗茂を「鎮西一」とたたえ、翌年、筑後国柳川13万2千石を与えて独立の大名に取り立て、豊臣の直臣としたのである。宗茂にとっては、涙が出るほどうれしい大抜擢だったはずだ。それからも秀吉の寵愛(ちょうあい)を受け、皆の前で「宗茂は本多忠勝(家康の重臣)と並んで東西無双の者どもだ」とたたえられた。こうした厚恩を受けたので、宗茂は豊臣政権を破壊して天下を握ろうとする家康に対し、迷うことなく敵対したのである。だが、東軍の大津城を攻めていて関ヶ原本戦には間に合わなかった。そこで、大坂城へ出向いて総大将の毛利輝元に抗戦を説いたが、すげなく拒まれてしまう。仕方なく、海路で柳川へ戻って籠城の準備を整えたが、東軍の大軍に包囲され、到底かなわないとみて降伏した。残念ながら宗茂には、改易(取り潰し)という厳しい処分が下された。

 宗茂が拠点の柳川城から立ち去る際、領民たちが大勢集まって行く手をふさぎ、「出ていく必要はございません。私たちが命を捨てる気持ちは、あなたの家臣と変わりありません。どうぞ城にお残りください」と哀願したという。すると宗茂はわざわざ馬から下り、領民たちに向かって「何れも申聞けゝる所、満足なり、領内の諸人の為めに、下城致すなり」(『名将言行録』)と感謝し、「柳川の支配は今後も変わりないので安心せよ。おまえたちがこのようなことをすれば、かえって私のためにならぬ。さあ、帰るのだ」と説得した。この言葉に領民たちは声を上げて泣き、とぼとぼと戻っていった。宗茂という人がいかに民に慕われていたかがよく分かる。

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