大将が強ければ、兵もまた強し
合戦においても謙信は、常に先頭に立って敵陣へ飛びこんでいった。大将が討たれたら合戦は負け。だから大将は後方から全軍を指揮し、その周囲には屈強な旗本が敵襲に備えているのが常である。そういった常識を、謙信は一切無視した。自分は軍神であり、絶対に死なないと信じていたからだろう。信念はある意味、魔術である。事実、謙信は戦場で果てなかったし、生涯幾多の闘いに臨んでも傷ひとつ負わなかった。
こうした大将の勇姿を目の当たりにして家臣たちも奮い立ち、結果として上杉軍は無敵といわれるようになったのである。ようは強烈なリーダーシップが組織を強固にしたわけで、まさに上杉謙信は、いまでいえばカリスマ型リーダーだろう。
晩年、上杉氏の領地は越後から越中、加賀、能登、佐渡、上野と拡大。石高にすれば、優に200万石を超える大大名に成り上がった。天正5年(1577年)には、加賀の手取川で柴田勝家率いる織田の大軍を撃破している。翌年3月、いよいよ謙信は小田原北条氏を倒すため関東へ大遠征を計画、家中に陣触れを発した。北条打倒後、謙信は織田信長と雌雄を決するため上洛を考えていたという説もある。だが、関東遠征の2日前、厠でにわかに昏倒し、そのまま逝ってしまった。脳卒中だったと思われる。まだ49歳であった。
「四十九年一睡の夢一期の栄華一杯の酒」
これが辞世の偈(げ)と伝えられるが、もう少し謙信が長く生きていたら、戦国の歴史は大きく変わっていたのではないかと思う。
(三菱UFJビジネススクエア「SQUET」より2019年8月18日掲載記事を転載)

歴史作家
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