戦国武将に学ぶ、経営の要諦。歴史作家の河合敦氏が、三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム『戦国武将の才覚』から記事を転載する。今回の戦国武将は、秀吉に仕えて武功を重ね、肥後熊本藩初代藩主となった加藤清正。

写真/ 清正公/浄池院殿永運日乗大居士肖像、原本京都府勧持院所蔵の複製画
写真/ 清正公/浄池院殿永運日乗大居士肖像、原本京都府勧持院所蔵の複製画
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秀吉子飼いの武将として栄達

 加藤清正は、永禄5年(1562年)に清忠の次男として尾張国中村に生まれ、幼い頃から羽柴秀吉に臣従し、賤ヶ岳(しずがたけ)合戦で抜群の軍功をあげ、七本槍の一人に選ばれた。

 この戦いで羽柴軍は、大垣(現・岐阜県大垣市)から賤ヶ岳(木之本=現・滋賀県長浜市)まで一気に引き返すのだが、清正の馬は3里走っただけでへばってしまう。すると清正は、甲冑(かっちゅう)を身につけたまま10里の道を疾駆し、味方に遅れることなく戦いに加わり、見事、敵将の山路将監の首を取ったという。

 以後も軍功をあげ続け、ついに肥後半国を与えられ、天下の名城・熊本城を造り始めた。

 文禄元年(1592年)の文禄の役では、二番隊長として1万人を率いて渡海し、釜山から破竹の勢いで北上して京城を占拠。ところが慶長元年(1596年)、清正は石田三成の讒言(ざんげん)により秀吉の怒りを買って伏見に蟄居(ちっきょ)させられてしまう。けれどまもなく、京都一帯に大地震が発生。すると清正は、謹慎の身であることを忘れ、心配のあまり一番に秀吉のもとへ馳せ参じたのだ。これに感じ入った秀吉は、その罪を許したと伝えられる。このように、清正というと猪突猛進のイメージが強いが、じつは家中の人心掌握にも長けていたのである。