戦国武将に学ぶ、経営の要諦。歴史作家の河合敦氏が、三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム『戦国武将の才覚』から記事を転載する。今回の戦国武将は、相模国の戦国大名、北条氏康である。

写真/ 北条氏康像、小田原城天守閣所蔵模本品
写真/ 北条氏康像、小田原城天守閣所蔵模本品

相手の油断を誘い、一気に強敵を瓦解させた氏康の戦術

 天文14年(1545年)9月、小田原城主・北条氏康は最大の危機にみまわれた。関東管領の上杉憲政に武蔵国河越城を包囲され、同時に今川義元にも駿河国長窪城を囲まれてしまったのだ。しかも上杉軍は、古河公方(こがくぼう)の足利晴氏が加わったこともあり、8万という大軍に膨れあがった。さらに、義元に呼応して甲斐の武田信玄が駿河に襲来してきた。

 そこで氏康はプライドを捨てて信玄に和睦を申し入れ、義元との仲介の労をとってもらい、泣く泣く長窪城主を切腹させ、義元に「駿河の河東地域を差し出す」と約束した起請文を提出した。「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざどおり、思い切って長窪城を捨て、河越城の救援に専心する決断を下したのである。

 こうして河越城に救援に赴いた氏康は、義兄弟にあたる足利晴氏に対し「河越城は差し出すので、城兵の命を助けてほしい」と依願した。だが、あっさり拒否される。そこで今度は敵将の上杉憲政にも泣きついた。ほくそ笑んだ憲政は、その頼みをはねつけて北条軍に攻撃を仕掛けてきた。すると氏康は、ホラ貝を吹かせて味方を退却させた。その後も上杉軍が来るたび、氏康はすぐに兵を引いた。これを見た憲政は「なんという臆病者か」と大笑したという。しかし、それこそが氏康の狙いだった。じつは氏康は、敵陣に商人や遊女をたくさん送り込み、相手が連日酒盛りをするように誘導していた。

「いまや敵は完全に安心し、弛緩(しかん)し切っている」

 そう判断した氏康は、昼間に兵たちにたらふく豪勢な食事を与え、その夜、にわかに全員を集めて次のように伝達した。

「月が雲に隠れた。いまが好機。今宵、敵陣に夜襲を決行する。8000の軍を四隊に分け、一隊は遊撃隊として多米大膳亮に預ける。多米隊は戦いが完全に終わるまで、一兵たりとも動いてはならぬ。ゆっくり戦を見物しているがよい。先鋒隊は大軍の中に一気に突進せよ。敵が乱れたところで第二隊がその後ろから駆け入って敵を切りまくれ。そして第三隊が敵陣に突入したとき、先の二隊が引き返して合流し、鬨(とき)の声を上げて縦横に暴れ回れ。取った敵の首は奪わずに、捨て置け。味方の目印として肩に白布をつけよ」

 このように氏康は、「夜戦は、敵味方の区別がつかないので行わない。恩賞の印として、取った首は必ず持ち帰る」という2つの戦国の常識を破ったのである。非常のときには非常の法をもって対処する、それを熟知していたのだろう。