戦国武将に学ぶ、経営の要諦。歴史作家の河合敦氏が、三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム『戦国武将の才覚』から記事を転載する。今回の戦国武将は、毛利氏の第12代当主にして、自軍を勝利へ導く策略家として知られる、毛利元就。

写真/ 紙本著色毛利元就像、毛利博物館蔵
写真/ 紙本著色毛利元就像、毛利博物館蔵
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相手の油断を誘い、一気に強敵を瓦解させた氏康の戦術

 毛利元就は、安芸(現在の広島県西部)の国人(有力武士)にすぎなかったが、一代で北九州から中国地方にまたがる領地を支配する大大名に成り上がった。飛翔するきっかけは、強大な陶晴賢(すえはるかた)の大軍を寡兵で打ち破った厳島の戦いだが、その勝因は緻密に練られた元就の戦略にあった。今回は、そのあたりを詳しく紹介しよう。

有利な場所に敵を巧みに誘い出す

 元就は、山陽から北九州を支配する陶晴賢に従っていたが、晴賢が自分をけん制しようとしたので、天文23年(1554年)、反旗をひるがえした。晴賢が吉見氏征伐に遠征している隙を突き、安芸国佐伯郡へ侵入、わずか1日で金山城、己斐城、草津城、桜尾城を奪い厳島を占領、さらに周防国へも侵攻したのだ。素早い動きに驚いた晴賢は、吉見氏と和を結んで本拠地山口へ戻り、準備を整えた上で、翌年、2万の大軍で毛利征伐へ向かった。そして岩国に本陣をかまえて毛利方の拠点を次々と襲い、総攻撃の時期をうかがった。

 元就の兵力はわずかに4000。もし陶軍が大挙して領内に侵攻してきたら、大敗は確実だった。だが、元就には秘策があった。狭い厳島に敵をおびき寄せ、これを急襲して一気に壊滅させようというのだ。厳島は陸地から1.8km沖に浮かぶ小島。地形が峻険で大軍は自由に動けない。元就はその厳島に宮ノ尾城を造り、己斐豊後守と新里宮内少輔を入れた。この2人は晴賢を裏切った武士。あえて彼らを城将にすることで、晴賢を刺激したのである。

 元就はまた、「俺が宮ノ尾城を築いたのは大きな間違いだった。ここを奪われたら毛利は滅亡だ」と嘆き、重臣たちにも「殿が厳島に城を造ったのは失敗だ」と吹聴させた。間諜を通じてこの情報がきっと晴賢の耳に入るだろうと考え、おびき寄せるためのまき餌としたのだ。さらに元就は、腹心の桂元澄に晴賢への内通を命じた。そこで元澄は密書を送って晴賢に宮ノ尾城攻略をすすめ、「元就が救援のために厳島へ渡った隙に、私が元就の吉田城を奪います」と誓詞を差し出した。

 ここにおいて晴賢は、重臣の反対を押し切って厳島への渡海を決意したのである。

 ただ、この時点で陶氏の水軍は、毛利水軍に対して圧倒的な優勢を誇っており、たとえ元就が厳島に救援に出向いても勝利をおさめるのは難しかった。この劣勢をくつがえすため、元就は村上水軍を味方につけようと考えた。瀬戸内海の各島には海賊が盤踞(ばんきょ)しており、利害によって動く独立性の高い海賊衆も多かった。その最大勢力が伊予の村上水軍だった。

 そこで元就は三男の隆景を通じて強く村上水軍に働きかけた。だが、海賊衆たちにとっても、どちらにつくかは死活問題だったので、そう簡単に同意を得られなかった。