見事な奇襲作戦によって勝利をおさめた毛利元就

 そうこうしているうち、事態は急を告げる。同年9月22日、陶晴賢が500艘(そう)の大船団を組んで厳島に上陸を開始、2万の大軍で宮ノ尾城を取り囲んで攻撃を開始したのだ。城兵はわずかに500人。ゆえに数日で堀を崩され、櫓は傾き、落城寸前の状態となった。さすがの元就も焦りを覚え、隆景に対して「村上水軍の来援はまだか」と矢のような催促をした。

 好感触を得ていた隆景だったが、27日になっても村上水軍は現れなかった。責任を感じた隆景は、なんと単独で漁船に潜んで厳島へと渡り、宮ノ尾城へ入ったという。これにより城兵は大いに喜び、士気は一気にあがった。

 翌28日、海のかたなに大船団が現れた。村上水軍200艘だった。ただ、その向背は明らかではなく、元就は固唾をのんで船団の行方を見守った。やがて一行は厳島ではなく、元就が本陣をかまえる対岸の地御前火立山に近づいてきた。この瞬間、きっと元就は狂喜したことだろう。

 9月30日、この日は暴風雨だった。だが、元就は風雨激しく吹きすさぶなか、夜陰にまぎれて水軍を二手に分け、無謀にも厳島への渡海を強行したのである。そう、敵が安心しきっている裏をかいたわけだ。

 元就率いる本隊は、鼓ヶ浦から上陸して晴賢が本陣を構える塔ノ岡の背後を突いた。一方、隆景率いる別動水軍は、厳島神社の大鳥居、つまり真正面から堂々と島へ向かっていった。そして、さも村上水軍が陶氏の来援にやってきたように見せかけて港に入り、援軍だと欺いて上陸を敢行、味方の合図を機に豹変して陶軍に襲いかかったのである。

 このため、陶氏水軍の舟は次々と沈没し、あるいは、形勢の不利を見て毛利軍に寝返っていった。また、前後から挟撃された陶軍は、大人数だったので大混乱を来し、味方討ちをするなど失態を見せて崩壊した。敗兵は海辺をめざして敗走をはじめたが、港に来ると停泊していたはずの多数の舟は沈没するか岸から離れてしまっており、兵たちは絶望の中で襲い来る毛利兵に討たれていった。ここにおいて陶晴賢も逃亡を断念、自刃して果てた。

 このように、巧みな頭脳戦によって厳島合戦に勝利した毛利元就は、これを機に中国地方の太守への階段を駆け上っていくことになるのである。

(三菱UFJビジネススクエア「SQUET」より2019年11月14日掲載記事を転載)

河合 敦 (かわい あつし)氏 歴史作家
河合 敦 (かわい あつし)氏
歴史作家
1965年、東京都町田市生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。都立高校や私立高校などで長年教員をつとめ、現在は多摩大学客員教授、早稲田大学教育学部非常勤講師。「世界一受けたい授業」(日本テレビ系列)などテレビ出演も多数。主な著書に『逆転した日本史』(扶桑社新書)、『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店)、『日本史は逆から学べ』(光文社)などがある。
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