戦国武将に学ぶ、経営の要諦。歴史作家の河合敦氏が、三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム『戦国武将の才覚』から記事を転載する。今回の戦国武将は、「天下布武」を掲げ全国統一を目指した、三大英傑の1人、織田信長。

写真/ 紙本著色織田信長像、長興寺蔵
写真/ 紙本著色織田信長像、長興寺蔵
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織田信長の革新性と徹底した能力主義

 織田信長が足軽鉄砲隊を組織して、長篠の戦いで甲斐の武田勝頼を撃破した話は有名だ。当時の火縄銃の有効射程距離は100mもない。弾や火薬を装填してから発射するまで、熟練者でも30秒程度はかかる。だから一発撃って外れたら、敵は容易に逃げ切ることができた。場合によっては、射撃手に駆け寄り、斬り殺すことも可能だろう。そういった意味では、鉄砲という武器は、単体ではあまり役に立たないシロモノだった。ところが信長は、大量の鉄砲を一斉に発射することで無敵の兵器に変えたのである。

 このほか信長は、常識をくつがえすような長い槍を開発したり、分厚い鉄板で船体を包んだ戦艦を創り出したりと、その着想力によって、次々と新兵器をあみ出していった。

 そんな信長の革新性を物語るものとして、織田家の人事制度があげられる。信長は、門閥や血筋といったものを一切信じず、完全な能力主義を採用したのである。家中における登用の基準はたった1つ。信長にとって役に立つか否かであり、しかも、それは徹底されていた。

 織田家の重臣に羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益がいる。秀吉は足軽出身(一説には農民)、光秀は浪人、一益は忍者だったという。こうした、当時でいう卑賤の出である新参の3人だったが、信長は秀吉を長浜城主にすえ、光秀には丹波一国、一益には上野国を与えているのだ。当時としては、到底考えられない驚くべき大抜てきである。

 役に立つ人間であれば、たとえ悪人でも、信長は平然と高い地位につけた。その代表例が京都を支配していた松永久秀である。この男は、将軍・足利義輝を殺害し、東大寺の大仏を焼き払った悪党だった。だから信長は、足利義昭(義輝の弟)を奉じて上洛した際、久秀を討とうと考えていた。ところが久秀は、いち早く信長に降伏する。すると信長は、この男は使えると判断したのだろう、殺害せずにそのまま家臣に取り立てたのである。能力と人格を完全に切り離して考えていることがわかる。