戦国武将に学ぶ、経営の要諦。歴史作家の河合敦氏が、三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム『戦国武将の才覚』から記事を転載する。今回の戦国武将は、戦国の世を自由気ままに生きた天下御免の「かぶき者」、前田慶次郎。

写真/ 落合芳幾画、『太平記拾遺 前田慶次郎利丈』
写真/ 落合芳幾画、『太平記拾遺 前田慶次郎利丈』

窮屈な境遇に耐えかね、家を飛び出した前田慶次郎

 戦国末期に「かぶき者」が登場する。「傾(かぶ)く」という動詞から生まれた言葉で、彼らは性格が真っ直ぐではなく斜めから物事をとらえ、権威や伝統を認めず、これをからかって馬鹿にする諧謔(かいぎゃく=ユーモア)を好み、奇抜な格好をして常軌を逸した行動をとった。そんなかぶき者の代表が前田慶次郎である。隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』を原作とし、マンガ化もされたので、知っている方も多いと思う。

 ただ、慶次郎の生年や父母はよくわかっていない。織田信長の重臣・滝川一益の血族で、のちに荒子城主・前田利久の嗣子となった。ところが信長が利久に「前田の家督は又左に譲れ」と厳命してきた。又左(又左衛門)とは利久の弟で、前田利家のことである。利久は仕方なく信長の言うとおりにし、慶次郎ら家族を連れて一益を頼った。おそらくこの屈辱的な体験が、慶次郎の権力者に対する反骨精神を醸成し、彼を「かぶき者」にしたのだと思われる。

 天正10年(1582年)に一益が失脚すると、利久・慶次郎父子は、前田利家に迎え入れられ、慶次郎には5千石が与えられた。慶次郎は武勇に優れ、石山戦争のさいは本願寺側に奪われた織田の軍旗をたった一人で敵から取り戻すなど、合戦でたびたび功をあげたが、利家からその素行の悪さをしょっちゅういさめられていた。このため、前田家にいることが窮屈になり、利久が没すると、出奔することに決めた。

 が、ただ逃げるのでは、面白くない。そこで真冬の寒い日を選んで、利家を茶会に招き、当人がのこのこやって来ると、「さぞ寒かったでしょう。さあどうぞ、身体を温めてください」と言って入浴をすすめた。湯船から湯気が立ち上っているので、裸になった利家は、そのまま風呂へザブンと飛びこんだ。が、入った瞬間、悲鳴を上げた。なんと、表面だけがお湯で、その下は冷水だったのである。このときすでに慶次郎は、利家の愛馬(松風)を奪って前田家から逃げ去った後だったという。

この記事は
「DeCom会員登録(無料)」で
続きがご覧いただけます。

DeCom会員はこちら

ログイン

DeCom会員登録(無料)はこちら

今すぐ会員登録