戦国武将に学ぶ、経営の要諦。歴史作家の河合敦氏が、三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム『戦国武将の才覚』から記事を転載する。今回の戦国武将は、「豊臣政権の六大将」と呼ばれ、その後の関ヶ原の戦いを経て窮地に陥りながらも、秋田の大名となり手腕を振るった佐竹義宣。

写真/ 佐竹義宣、天徳寺所蔵
写真/ 佐竹義宣、天徳寺所蔵

徹底した人材登用からはじめた藩政改革

 佐竹義宣(さたけ よしのぶ)と聞いても、ピンと来ない方が多いだろう。義宣は、常陸54万石を領する大大名であった。しかし、慶長7年(1602年)に徳川家康から突然、転封を申し渡されたのである。関ヶ原の戦いで、日和見的な態度をとったことへの懲罰的な処置だった。

 転封先は、秋田・仙北地方(秋田・河辺・山本・雄勝・平鹿・檜山の6郡)だったが、義宣が家臣を派遣して検地をしてみると、なんと新領地は20万石にすら達しないことがわかった。これまでのわずか3分の1程度だ。そのため、断腸の思いで多くの家臣を召し放つことに決めた。この結果、義宣に従うのは一門・譜代合わせてわずかに93騎、雑兵を加えてもその数は2000に満たなかった。すさまじい人員整理を断行したのである。

 義宣が与えられた6郡は、秋田氏、浅利氏、戸沢氏、小野寺氏、六郷氏といった諸大名たちの錯綜地だった。だから税率も違えば、支配の方法も違う。そのため統治は当初、困難をきわめた。入封直後から旧大名の遺臣たちが佐竹氏の新政に抵抗して、仙北金沢、大曲、六郷、秋田比内、大阿仁などの各地で次々に蜂起した。義宣は武力でこれをどうにか鎮圧したものの、今後の領国経営を考えると、武断政治に終始するわけにはいかない。そこで、徹底的な藩政改革を実施し、経営を安定させようと決意したのである。そのためにまず、思い切った人材登用を行った。とくに注目に値するのは、新参者の浪人・渋江内膳政光を家老に取り立て、藩政改革をゆだねたことである。政光は、まだ30歳の若者だった。そのほか、やはり新参者の梅津憲忠・政景兄弟を藩政に参画させた。

 この国替えという最大の窮地を脱し、藩の立て直しをはかるには、政光や梅津兄弟のような経世の才に明るい人物が必要だった。義宣が欲していたのは、武辺者ではなく財政や事務能力に優れた官僚だったのである。

 だが、案の定、この人事は家中からの猛反発を受けた。「譜代には人材がいないと言っているようなものだ」と激怒し、反対をとなえた急先鋒は、佐竹氏代々の家老の川井伊勢守忠遠だった。譜代の重臣たちの多くも、川井の主張に同調した。残念なことに、義宣の思いは家臣たちに理解されなかったのである。

 やがて川井は、政光の暗殺を企てるようになる。これを察知した義宣は、偽って川井を呼び出し、政景に刺殺させたのである。さらに間髪を入れず、小野玄蕃、野上刑部左衛門、大久保長助といった守旧派をことごとく処分した。この断固たる措置により、不満の声は影をひそめ、藩主の強い決意を知った家臣たちは次第に協力的になっていった。

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