戦国武将に学ぶ、経営の要諦。テレビ番組などでも人気の歴史作家の河合敦氏が、三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム『戦国武将の才覚』から記事を転載する。今回登場する戦国武将は、三英傑のひとりで、江戸幕府を開いた初代将軍、徳川家康。

写真/狩野探幽画、大阪城天守閣蔵
写真/狩野探幽画、大阪城天守閣蔵

なぜ負けると知って大敵に挑んでいったのか

 元亀3年(1572年)12月、徳川家康は人生最大の危機をむかえた。武田信玄が織田信長を討つべく2万5000の大軍を率いて上洛を始め、その途上にある徳川領を侵して家康の居る浜松城へ迫ってきたのだ。このとき家康は、重臣の反対を押し切って城から出撃した。その兵力は1万1000、武田軍の半数にも満たない。驚くべき無謀な行為であった。

 こうして三方原で両軍が激突、案の定、徳川軍は大敗北を喫した。信玄は逃げる徳川軍を追撃したが、浜松城は包囲せず、やがて三河の野田城をめざして去っていった。

 ところでいったいなぜ、家康はあえて勝ち目のない戦いに挑んだのだろうか。

 それは、そうしなければ徳川家が消滅した可能性があるからだ。三河武士(徳川家臣)は家康に忠誠を尽くした武士の鑑だと伝えられているが、それはウソである。実はとんでもない不良家臣団なのだ。家康は駿河の大名・今川義元の人質として幼少期を送ったが、義元が桶狭間の戦いで討たれた後、大名として独立した。だが、三河の武士たちは家康に心服せず、3年後の永禄6年(1563年)、領内で一向一揆が勃発すると、多くの家臣が一揆方に加わり、平然と主君に銃口を向けた。このとき家康の鎧には、銃弾が2発撃ち込まれている。

 今回の三方原合戦でも、敗戦が確実になると、徳川四天王と呼ばれた榊原康政ほか多くの家臣は浜松へ戻らず、そのまま他所へ遁走してしまっている。また、何を思ったのか、家康より先に浜松へ逃げ帰った小倉忠蔵は「殿が討ち死したぞ!」と城中に触れ回り、味方を絶望のどん底に陥れた。大久保忠世などは、家康が敗戦の恐怖のあまり脱糞して戻ってくると、主君をねぎらうどころか「殿が糞を垂れて戻ってきたぞ」と大声で馬鹿にする始末だった。つまり、こうした素行のよくない連中の前で、戦わずして尻尾を巻いて城中で震えていたら、間違いなく家康は譜代にも見限られたはず。だから家康には、家の存亡をかけて信玄と戦うしかすべはなかったのだ。