時勢が変わるまでひたすら待つことが勝利へのカギ

 ただ、この人の運のよさは、大敗を喫したものの信玄が間もなく病没したことだ。とはいえ、家康はその後も長く、家臣らの理不尽な行為に耐えねばならなかった。天正7年(1579年)、家康は嫡男の信康を自殺させ、正室の築山殿を殺害した。織田信長の命令であった。二人が武田方に内通しているとの疑いを抱いた信長が、徳川家の宿老・酒井忠次に問いただしたところ、全面的に肯定したので、このような結末に至ったのだ。平素自分を軽んじる信康に対する、忠次の復讐だったという。

 家康はさぞかし無念だったはずだが、一切不満を漏らさず忠次への処遇も変化していない。もちろん態度に出そうものなら忠次は織田方へ走り、織田・徳川同盟は決裂、大勢力の信長に三河は蹂躙されただろう。つまりは、耐えるしかなかったのだ。くだって天正13年(1585年)、重臣の石川数正や刈谷城主・水野忠重、松本城主・小笠原貞慶らが相次いで出奔、敵対していた豊臣秀吉のもとへ走った。秀吉の勧誘工作の成果だが、いかに徳川家臣団の結束がもろいかを知る好例だろう。さらにいえば、家康が死没する前年の大坂夏の陣。徳川の本陣は真田幸村勢に急襲される。このおり体をはって主君を守るべき旗本隊は、さっさと家康を見捨てて逃げ散っている。

 これが、徳川家臣団の実態なのだ。けれど家康は、家臣の非礼や裏切りを隠忍し、決して処罰することはなかった。また、同盟者の信長には馬車馬のようにこき使われたが、嫌な顔ひとつせず諸国を駆けずり回っている。人質時代の所産だろうか、強靭な耐性である。

 ここからわかるように、家康の幸運は、どんな局面においても激さず焦らずじっと耐え、時勢がほほ笑むまでひたすらに待つことによって、みずから招いたものであった。耐えながら待つ。言われてみればたわいのないことだが、実行し続けるのは困難。それを平然とやってのけたからこそ、家康は大成したのである。

 徳川美術館に所蔵されている徳川家康の肖像画に「顰像(しかみぞう)」と呼ばれる一枚がある。家康といえば肥満体の老人をイメージするが、この像は全く異質だ。剥き出した歯で下唇を強く噛みしめ、見開かれた大きな目は血走り、眼孔は落ち込んで眉がゆがんでいる。あきらかに憔悴しきった人間の顔である。実はこれ、三方原で敗れた家康が浜松城に逃げ戻ってきたときの表情なのだ。家康は帰城するとすぐに絵師を呼んで、己のみじめな姿を描くよう命じた。そして完成した顰像を常に手元に置き、慢心の戒めとしていたという。さすが、天下をとるだけのことはある。

(三菱UFJビジネススクエア「SQUET」より2019年4月14日掲載記事を転載)

河合 敦 (かわい あつし)氏 歴史作家
河合 敦 (かわい あつし)氏
歴史作家
1965年、東京都町田市生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。都立高校や私立高校などで長年教員をつとめ、現在は多摩大学客員教授、早稲田大学教育学部非常勤講師。「世界一受けたい授業」(日本テレビ系列)などテレビ出演も多数。主な著書に『逆転した日本史』(扶桑社新書)、『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店)、『日本史は逆から学べ』(光文社)などがある。
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