戦国武将に学ぶ、経営の要諦。歴史作家の河合敦氏が、三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム『戦国武将の才覚』から記事を転載する。今回登場する戦国武将は、豊臣秀吉の軍師として名高い、黒田官兵衛。

写真/如水居士画像、崇福寺蔵
写真/如水居士画像、崇福寺蔵
[画像のクリックで拡大表示]

野望実現のため、過酷な環境でも耐え抜く

 黒田官兵衛は、播磨国の小寺政職に仕えていたが、いち早く織田信長の将来性を見抜き、政職を説得して毛利方から織田方に鞍替えさせた。そして、信長の部下である羽柴秀吉に属し、播磨の諸将に織田方へつくよう説き伏せていった。結果、多くの武将たちが織田氏へなびいた。備前・美作の大大名である宇喜多直家まで味方につけたときには、さすがの秀吉も「あなたを本当の弟のように思っている」と感激して手紙にしたためたほどだった。

 だが、それがアダになった。官兵衛は、自分の知謀に溺れてしまったのである。

 織田家の重臣・荒木村重が、突然謀反をおこした。このとき「私が説得してみせます」と自信たっぷりに告げ、単身、村重の拠る有岡城へ乗りこんでいった。ところが村重は官兵衛の言葉に耳を貸さず、牢へぶちこんでしまったのだ。処刑されなかったのは村重が情けをかけたからだというが、殺してもらったほうがましであった。背の立たない真っ暗な土牢。地面には無数の毒虫が這い、地中から蒸れた臭気が立ちのぼった。普通の人間なら数日で精神に異常を来すか、みずから命を絶つに違いない。そんな絶望的な環境に放置されたのである。

 有岡城が陥落したのは1年後のことだったが、なんと官兵衛はまだ生きていた。ただ、救出されたときには毒虫のために全身が赤黒くただれ、頭髪は抜け落ちて表皮に痘瘡が広がり、片膝は曲がったままになっていた。そうなってまで生に執着し続けたのは、「自分が天下をにぎりたい」という強烈な野望を胸に秘めていたからだという。人間、大きな夢があれば、どんな過酷な環境でも耐えることができるのだ。これにより官兵衛はますます秀吉の信頼を得て、軍師として重用されるようになった。まさに災い転じて福となすだ。ところがその後、絶頂期にあった官兵衛を、再び不幸が襲う。やはりこれも、前回同様、自身の軽率さが招いたものだった。