戦国武将に学ぶ、経営の要諦。歴史作家の河合敦氏が、三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム『戦国武将の才覚』から記事を転載する。今回の戦国武将は、伊達氏の第17代目当主にして、後世「独眼竜」の異名をとった伊達政宗。

写真/ 伊達政宗像、東福寺霊源院蔵
写真/ 伊達政宗像、東福寺霊源院蔵

一代で大大名に成り上がった東北の雄

 東北の戦国大名・伊達政宗は、子供のころに疱瘡(天然痘)をわずらって右目を失明し、顔にもあばたができ、それがもとで消極的な性格になってしまったという。母の義姫はそんな政宗を遠ざけ、政宗の弟・小次郎ばかりをかわいがるようになった。しかし父の輝宗は、政宗の優れた資質を見抜いたのか、彼がまだ18歳のときに家督をゆずった。

 当主になった政宗は、鮮やかな戦略や徹底した力攻めによって、近隣の小大名を次々と平定していった。二本松城主・畠山義継も、政宗に敗れた一人だった。だが、和睦の条件が厳しすぎることに腹を立て、にわかに政宗の父・輝宗を拉致して逃走したのである。ちょうど鷹狩りに出ていた政宗だったが、この情報を得ると、ただちに義継一行を追いかけ、二本松領の手前で追いついた。

 このとき輝宗は、息子の政宗に向かい「義継を私とともに射殺せよ!」と叫んだという。「それしかない」と瞬時に判断した政宗は、なんと、家臣に発砲を命じたのである。結果、輝宗は義継もろともに射抜かれ、その場で義継一行もことごとく命を落とした。このように、政宗の決断で輝宗は命を失ったわけだが、そうしなければ、政宗は父の身柄を盾に義継から妥協を強いられたろうし、近隣の小大名から軽んじられたはず。これまで政宗は、敵対する大名を容赦なく攻め立ててきた。ときには皆殺しにすることもあった。そんな武将だったからこそ、人々は震えあがって服属したのである。そういった意味では、苦渋の選択ではあったが、的確な情勢判断だったといえよう。

 政宗はその後、蘆名氏を滅ぼして会津三郡を我がものとし、わずか24歳で100万石を超える大大名となった。しかし残念ながら、生まれるのが遅すぎた。これより前、すでに関東以北は豊臣秀吉が制圧していた。そこで政宗も仕方なく豊臣政権に服する素振りを見せたが、上洛(じょうらく)を求められても京都へ出向かず、秀吉が出した停戦命令(惣無事令)を無視して葦名氏を打ち負かし、その領地を奪い取ったのである。この行動は、秀吉を激しく立腹させた。

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