戦国武将に学ぶ、経営の要諦。歴史作家の河合敦氏が、三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム『戦国武将の才覚』から記事を転載する。今回登場する戦国武将は、甲斐の守護大名・戦国大名、武田信玄。

写真/武田晴信像、高野山持明院蔵
写真/武田晴信像、高野山持明院蔵
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父親追放は武田信玄の計画ではなかった!

 甲斐の武田信玄は、信濃・駿河と領土を急速に拡張していき、最晩年にその版図は10カ国にまでおよんだ。信玄の率いる軍団は強く、領内に善政を敷いたため、いまなお山梨県や長野県では、信玄は郷土の誇りになっている。そんな名将の誉れ高い信玄だが、彼の成功の秘訣を聞いたら、きっと意外に思うだろう。

 武田信玄が成り上がれたのは、実は彼が臆病だったからなのである。

 この資質が、信玄をして大大名への栄達を可能ならしめたのだ。よく言われることだが、短所は長所でもあり、長所は短所にもなる。優しさは裏を返せば優柔不断とも言えるし、無鉄砲さは勇敢ともとれる。つまり、生まれ持った性格をプラスに転化できるかどうかは、その人次第ということなのだ。

 そういう意味では、信玄は自分の臆病さを見事に生かしきった人だった。臆病であることを用心深さ、細心さとして活用し、すぐれた領国経営を展開していった。

 1541年、信玄は父の信虎を領国から追放して武田家の家督をうばっている。信虎が残虐な暴君だったうえ、信玄を廃嫡して次男の信繁に武田家を継がせようとしたので、やむを得ずクーデターを起こしたのだという。しかし、この巷説は正しくない。

 近年は追放劇に信玄本人は深く関与しておらず、重臣たちが主導した反乱だったという見方が強い。もともと甲斐国は、国人(有力武士)たちが長年にわたって根をはる土地柄だった。そこを苦心して信虎が平定していったわけだが、臣従した国人(重臣)たちの自立性はかなり強かった。なのに甲斐統一後、信虎は急激に権力を自分に集中させ、大きな合戦を繰り返したため、有力家臣の反発をうけ追放されたらしいのだ。当時20歳の信玄は、政変の動揺を防ぐために担ぎ出された神輿だと考えるべきだろう。

 そうした経緯もあり、臆病な信玄は当主となって以降、家臣の統制に細心の注意を払っていく。信玄が制定した分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」には「自分のふるまいや行動によくないことがあれば、遠慮なく投書してほしい」とあり、家臣への気の使いようがよくわかる。