臆病な性格だったので武田信玄は大大名になれた!?

 同時に信玄は、独立心旺盛な家臣の反乱を防ぐため、多数の目付や横目(スパイ)を召し抱え、領内に放って情報の収集を怠らなかった。そのおかげで1564年には、飯富《おぶ》虎昌や長坂昌国らが信玄の嫡男・義信を奉じて信玄を倒そうとする反乱計画を探知でき、信玄は未然に関係者を処刑し、義信を幽閉することに成功している。もし信玄が楽観的な人物だったら、おそらく父親の二の舞になっていたことだろう。

 『甲陽軍鑑』(信玄の死後、その治績をまとめた軍学書)によれば、信玄は敵への用心のため、便所を6畳間にしたとある。壁から槍で刺されることを警戒したのだ。しかも用便中は警護の武士に刀を持たせて近くに控えさせ、自分も刀を差していたという。また「女房と寝るときも刀を離すな」と語ったといい、近親者さえ信用していなかった用心深さがわかる。

 合戦においても、無理な力攻めをしなかった。若い頃、血気にはやって信濃の村上義清に大敗したことを教訓に、以後は緻密な戦略をねり、勝算があるときのみ、用意万端整えてから兵を動かすようになった。ただし、いったん行動に出たら疾風のように素早かった。ふつう慎重さと鈍重さは比例するものだが、武田軍団は違った。そのうえ、分が悪いとみれば、兵力の消耗を防ぐため惜しげもなく兵を引いた。そこが信玄の強さの秘密なのだ。

 信玄はまた、いったん奪った領地は、細心の注意を払って完全に自領に組み入れた。たとえば信玄のライバルである上杉謙信は、降伏させた武将にそのまま旧領支配を許したので、何度も同じ武将に背かれている。一方、信玄は、征服した土地には代官を派遣して武田流の政策を展開させ、降(くだ)した武将の政治を認めなかった。実際、謙信と何度も領有を競った川中島は、戦いでは決着がつかなかったものの、最終的に武田領となっている。

 残念ながら信玄は、織田信長を討つべく大軍で上洛する途上で死去してしまうが、もし彼が生きていれば天下統一も決して夢ではなかったろう。

(三菱UFJビジネススクエア「SQUET」より2019年6月13日掲載記事を転載)

河合 敦 (かわい あつし)氏 歴史作家
河合 敦 (かわい あつし)氏
歴史作家
1965年、東京都町田市生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。都立高校や私立高校などで長年教員をつとめ、現在は多摩大学客員教授、早稲田大学教育学部非常勤講師。「世界一受けたい授業」(日本テレビ系列)などテレビ出演も多数。主な著書に『逆転した日本史』(扶桑社新書)、『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店)、『日本史は逆から学べ』(光文社)などがある。
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