戦国武将に学ぶ、経営の要諦。歴史作家の河合敦氏が、三菱UFJビジネススクエア「SQUET」で連載しているコラム「戦国武将の才覚」から記事を転載する。今回の戦国武将は、無駄な戦いをせず、調略で次々と敵を服従させた天下の名将、豊臣秀吉。

写真/豊臣秀吉像、狩野光信筆 高台寺蔵
写真/豊臣秀吉像、狩野光信筆 高台寺蔵
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調略で鳥取城主・山名豊国を降伏させた豊臣秀吉

 豊臣(羽柴)秀吉は、調略(政治工作)によって敵を服属させることを好んだ。敵将の性質や置かれている立場、敵地の民情や家臣団の人間関係など、相手方の正確な情報をしっかりと把握したうえで、甘言や温情をもって誘降し、あるいは内部分裂を誘発させて自滅に追いこむのを得意とした。また、調略に失敗して戦いを余儀なくされたときは、極力味方の損害を出さないよう、全面激突をさけて包囲戦(攻城戦)や局地戦に持ち込んだ。

 調略を用いた攻城戦として代表的なのは、鳥取城攻撃である。今回はこの戦いを紹介しよう。

 天正8年(1580年)6月、織田信長の重臣だった秀吉は、因幡国鳥取城を包囲する。城主の山名豊国は、織田氏と毛利氏とのはざまで去就を決めかね、両者から圧迫を受けるたびに、風にそよぐ草のように簡単になびいていた。そんな軟弱な性向を利用して秀吉は、「自分に従えば因幡国の支配を認める。逆らえば、人質にしていた娘を磔(はりつけ)にする」とアメとムチを提示した。しかも、単に殺すと脅すのでなく、実際に豊国の愛娘を城下に引き出し、視覚効果を狙ったのである。豊国の娘への溺愛ぶりは有名で、この情報を入手したうえでの巧妙な心理作戦だった。動揺した豊国は、家臣の反対を押し切って織田方に降伏してしまった。こうして鳥取城を服属させた秀吉は、いったん、包囲を解いて帰陣したが、しばらくして事態が急変する。

 あまりの不甲斐なさに怒った山名氏の重臣たちが、主君の豊国を追放し、毛利方に寝返ってしまったのだ。これを知った毛利輝元は大いに喜び、城将として重臣の吉川経家を鳥取城へ派遣した。

 さて、離反を知った秀吉だが、すぐには出陣しなかった。入念な下準備を整えたうえで、翌天正9年(1581年)6月になってからようやく鳥取城へ向かったのである。

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