全国各地で、「小さな個人店」から新しい文化やビジネスの賑わいが生まれている。店のカウンターをハブ(結節点)として育った人のつながりが口コミ、SNS、メディアを通じてさらに広がり、人と人、人と地域、地域と地域のつながりをさらに広げた事例を紹介する。

たった15坪の「さばのゆ」が仕掛けた大きな復興活動

 私は1980年代から東京都世田谷区の経堂という街に暮らし、この10年は本業の作家&プロデュース業と並行して飲食店を経営してきた。

 店主をつとめる小田急線・経堂駅北口のイベント酒場「さばのゆ」は、2011年3月11日の東日本大震災で復興支援の拠点ともなった。壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市の水産加工会社「木の屋石巻水産」の工場跡地に埋まった泥まみれの缶詰をさばのゆに運び、商店街の飲食店仲間や常連客たちと一緒に洗い、販売した。一連の様子はテレビや新聞、ラジオ、ネットで繰り返し報道された。

経堂のイベント酒場「さばのゆ」店舗前で缶詰を洗う商店街の飲食店仲間や常連客たち(写真撮影:筆者)

 15坪の小さな店である「さばのゆ」では、洗える数、売れる数は、もちろん限られていた。洗える数は、がんばって週に1000缶程度。売れる数は500缶程度。1缶300円の義援金と交換していたので、500缶売れても15万円。これに対して木の屋石巻水産の社員数は約40名。会社の復興には明らかに足りない。

当時の「さばのゆ」店内の様子。経堂から石巻に送る支援物資と、石巻の木の屋石巻水産から送られてきた泥まみれの缶詰を積み上げていた(写真撮影:筆者)

 支援の輪が広がったのは、メディアの力が大きかった。「さばのゆ」で洗って売る様子をSNSから発信すると、それを見たメディア担当者から取材依頼が入った。テレビの特集がオンエアされると影響力は大きく、時が経つにつれて全国から「同窓会で使いたいので200缶」「娘の結婚式の引き出物用に150缶」「バザーで売りたいので4000缶」など大口の注文が次々と入った。数が追いつかない分は、全国からボランティアが集まり、大量の缶詰を掘って洗う態勢を急速に整えた石巻の作業拠点から発送してもらった。

 震災から3カ月を経た6月になると、石巻から週に1万缶以上を発送することもあり、応援の輪が全国に広がっていると感じられた。最終的に20数万缶分が義援金となり、会社の復興に貢献できたように思う。

 工場の再建は2013年3月。木の屋石巻水産と「さばのゆ」、そして経堂の人々との友情の実話は、その後もテレビなどで取り上げられ、そのたびに木の屋石巻水産の名物「金華サバ缶」をはじめとする商品と社名を全国に発信できた。

 同時に、経堂の個人店ではたらく人や客の間では、震災後の体験を通じて、「石巻だけでなく、全国の様々な地域と常につながることが大切」という意識が共有された。

 その結果、地方の生産者と顔の見える関係性を築き、「コラボメニュー」を提供することが増えた。そのなかの1つが、高知県いの町にある水田農園の「かおり生姜」だ。日本一の清流・仁淀川流域で育てられた高品質の生姜は、経堂の10数軒の個人店で提供され、カレー、ラーメン、かき揚げ、炭火焼など、多様なメニューに使われ人気。クラフトビールを自家醸造する後藤醸造では、「かおり生姜」を使ったジンジャービールが売れ筋となっている。経堂の街と地方のつながりが、経済と文化にプラスとなった格好だ。

 木の屋石巻水産の売り上げが以前と同じレベルに戻ったのは震災から4年半後の2015年9月。かなり早期に実現できたと考えて良いだろう。

 少なくとも4年は記憶が飛ぶほどの忙しさだったが、たった15坪の小さな場所でも、社会的に意味のある活動を行い、同時にSNSによる発信を続けてメディアと連動すれば、社会的に大きな影響力を持つことができるという実感があった。あの頃の「さばのゆ」が体現したのは、「小さな個人店」の大きな可能性だったと思う。なお、一連の復興応援活動の実話は拙著『蘇るサバ缶』(廣済堂出版)に詳しい。