東日本大震災から10年を迎えた2021年。被災地の石巻で「復興」以上の「発展」を遂げ、被災地に希望を見せている企業がある。いわゆる「グルメ缶詰」で有名な老舗の水産加工メーカー、木の屋石巻水産だ。同社はコロナ禍の中、震災前の約1.5倍の業績を上げているという。被災で泥にまみれた缶詰を再生した「希望の缶詰」で有名となった同社の歩みを振り返りつつ、私たちが記憶にとどめるべき震災の記録と、ひととまちを支えたつながりを見る。

 10年前の東日本大震災による大津波。宮城県石巻市に本拠を置く水産加工メーカー、木の屋石巻水産の工場と社屋は壊滅した。廃業しかないと覚悟したその時、工場跡地に埋まった大量の缶詰を発見。開けてみると中身は無事。震災前から付き合いがあった東京・世田谷の商店街が「缶詰を運んで洗って使いたい」と申し出た。

 ボランティアたちが洗った泥まみれの缶詰は、刺身にできる鮮度の魚が詰まったグルメ缶。そのおいしさが口コミとメディアで広がり、評判は全国規模となった。2011年中に20数万缶が義援金と交換され、これが木の屋石巻水産の工場再建、業績復活の足がかりにもなった。

 泥から救い出されて洗われた缶詰は、いつしか「希望の缶詰」と呼ばれるようになった。

 石巻で被災し、震災直後から「希望の缶詰」の流通に深く関わったのは、木の屋石巻水産で広報を担当する松友倫人(みちひと)さん。県外出身の移住者でもある。

 今年3月は、東日本大震災から10年が経過した節目の時期。被災地・石巻を「外」と「地元の目線」という両方で見ることができる松友さんの10年を追い、地域の希望の道筋を探る。

木の屋石巻水産の『金華さば水煮』缶の中身。グルメ缶と銘打ち販売されているだけに、切り身のおいしさは随一だ(写真提供:木の屋石巻水産)
木の屋石巻水産の『金華さば水煮』缶の中身。グルメ缶と銘打ち販売されているだけに、切り身のおいしさは随一だ(写真提供:木の屋石巻水産)
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缶詰の味に感動して転職

 松友倫人さんは静岡県生まれ。東京海洋大学大学院を修了後、製薬関連会社での勤務時、たまたま食べたのが木の屋石巻水産の『いわし醤油煮』缶だった。その味に感動して、30歳だった2010年7月に入社。震災の8ヵ月前、最初に配属されたのは商品開発部だった。

 秋から冬、新年を迎えて、ようやく環境に慣れてきた頃。2011年3月11日午後2時46分、日本国内観測史上最大、マグニチュード9.0の地震が起き、海岸から150mの距離にある同社の工場と社屋を含む石巻市の沿岸部は、津波で壊滅的な被害を受けた。

 「震災発生当時は本社で、新商品の開発中でした。尋常ではない揺れに驚きましたね。揺れが収まって工場から外に出るとすぐに、社長から高台への避難命令が出ました。そこで会社から自転車で避難しようとしていた中国人研修生たちを車に乗せて、石巻港から北に3kmほどの場所にある牧山という高台に向かいました」

 「道路はすぐ渋滞になり、揺れから17分後に大津波警報が響き渡ると、さらに車が殺到。充電が切れる前の携帯電話に、大学時代の友人が『NHKで石巻に7mの津波予報が出ている』とメールを送ってくれました。大学で海洋学を学んでいたので、14m級が来てもおかしくないと考え、焦りましたが、なんとか無事に避難できました」

 「他の社員と共に、避難時に使った車の中でほとんど眠れずに夜を過ごしました。夜が明けると、眼下に広がる石巻のまちは変わり果てた姿で、あちこちで火災が起き、黒い煙が立ち上っていました。言葉になりませんでした」

震災直後の、木の屋石巻水産の工場。ほぼ跡形もない状態だった(写真提供:木の屋石巻水産)
震災直後の、木の屋石巻水産の工場。ほぼ跡形もない状態だった(写真提供:木の屋石巻水産)
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 松友さんは、一緒に避難した会社の同僚たちと自力で5日間を過ごしたのち、自衛隊に救出された。ヘリとバスで運ばれた内陸の中学校に仮設された避難所で温かい食事にありつき、NTT東日本が設置した災害時用の電話から家族や友人に無事を伝えた。

 「皆さん、石巻のまちが津波に飲み込まれる映像を散々見ていたので、生きていると知り、泣いて喜んでくれました。しかし、大勢が犠牲になったことを考えると私自身は複雑でしたね。うちの社員にも帰らぬ人がいたので」

 ほっとしたのもつかの間、松友さんに重大なミッションが与えられた。木の屋石巻水産営業部の鈴木誠さんと2人で、震災当日に同社を訪問していた韓国の取引先社長を母国に帰す仕事だった。ちなみに鈴木さんは震災当日、渋滞のため高台にたどり着けなかったものの、海岸に近い湊中学校の3階に避難して助かった。

 母国に帰すといっても、高速道路、鉄道、空港、港も破壊され、陸路・空路・海路の全てが断たれていた。しかし、なんとか車を1台確保。現在、木の屋石巻水産の社長を務めている木村優哉さんの奥さんが秋田出身だった縁で、石巻から山越えで秋田に向かった。

 「秋田空港から羽田空港行きのチケットを取ることができました。震災から6日後の2011年3月17日、韓国の社長さんに羽田空港から飛行機に乗っていただき、無事に母国に帰っていただくことができました。社長さんの帰国は現地でもニュースになったそうです」

 日が暮れて夜になっていた。松友さんと鈴木さんは、世田谷区にある小田急線の経堂駅に向かった。経堂のまちには、筆者が経営するイベント酒場『さばのゆ』をはじめ、震災前の2010年から木の屋石巻水産の缶詰『金華さば水煮』を使ったメニューを提供する飲食店がある。店主たちは皆、木の屋石巻水産の社員が来ると「おかえり!」と迎えるのだ。

(関連記事:小さな個人店から広がる、人の輪、地域の輪~さばのゆ(経堂)

 松友さんはまず駅北口にあるさばのゆに顔を出した後、近所のラーメン店『まことや』に入った。

 「まことやさんは、うちの『金華さば水煮』缶のサバ切り身をチャーシュー代わりに使った『サバ塩ラーメン』を、通常メニューにしてくれていたんです。『やっぱりうちのサバ缶はうまいね!』と、涙を流しながら鈴木さんと言い合いました」

 「その時に『あれっ、なんでここにいるの?!』と、聞き覚えのある声がしたので振り返ると、震災前からうちの缶詰を応援してくださっていた春風亭昇太師匠でした。その時、師匠に『生きていれば絶対になんとかなるから』と力強く握手しながら言われたことは、一生忘れませんね」

世田谷区経堂のラーメン店「まことや」でラーメンをすする松友さん(右)と鈴木さん(左)。この後、2人は筆者と共に被災地への支援活動を練ることになる(写真撮影:筆者)
世田谷区経堂のラーメン店「まことや」でラーメンをすする松友さん(右)と鈴木さん(左)。この後、2人は筆者と共に被災地への支援活動を練ることになる(写真撮影:筆者)
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 サバ塩ラーメンを食べた後、2人はさばのゆの店主である筆者と支援物資運搬計画を練った。木の屋石巻水産の社屋近くには、学校の教室や体育館で寝泊まりする人たちが大勢いた。また、津波で1階がぶち抜かれた家の2階にしがみつくように避難する人もいた。生活に必要な物資の何もかもが足りなかった。

 さばのゆに集めた物資の運搬は、東北道復旧の2日後、2011年3月27日の夜9時に開始した。松友さんと鈴木さんは、レンタカー2台に荷物を満載して石巻まで走った。