温泉旅館をオフィスとして活用する──。佐賀県嬉野市で創業71年の歴史を誇る旅館「和多屋別荘」を舞台として、東京のプロモーション会社・イノベーションパートナーズが日本で初めて旅館内にサテライトオフィスを設置、さらに温泉ワーケーションというユニークな取り組みを始めた。今年度はすでに東京に本社を置く4社の進出が決まっている。現地を訪れると、まるで歴史ある大きな寺社の中に一歩を踏み入れたときのような、静かでゆったりとした心地のよい空間が広がっている。旅館のもつ資産と地域資源をベースに、オフィスで働く人を“新たな働き方”や“まち”へとつなぎ、“ここにしかない価値”を生み出そうとする人びとがそこにいた。

 2021年4月20日、佐賀県嬉野市と、市内にサテライトオフィスを設置する予定の4社(AnyMind Japan、ENGAWA、ライフエンディングテクノロジーズ、ナノ・アソシエーション)との間で進出協定が締結された。東京に本社を有するこの4社が協定を締結する舞台となったのは、老舗旅館の「和多屋別荘」。「旅館にサテライトオフィスを設置する」という独自の取り組みに注目が集まった。6月4日、5日には、先行して2020年4月にサテライトオフィスを開所したイノベーションパートナーズを含む計5社が、現地採用を行うための合同会社説明会を開催。この説明会も和多屋別荘内で行われた。

東京に本社がある4社と佐賀県嬉野市との間で進出協定が結ばれたときの様子(写真提供:和多屋別荘)
東京に本社がある4社と佐賀県嬉野市との間で進出協定が結ばれたときの様子(写真提供:和多屋別荘)
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大きな負債と資産を抱えた若社長

和多屋別荘の一室で行われた、今年度入居予定のナノ・アソシエーションの会社説明会の様子(写真提供:イノベーションパートナーズ)
和多屋別荘の一室で行われた、今年度入居予定のナノ・アソシエーションの会社説明会の様子(写真提供:イノベーションパートナーズ)
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 サテライトオフィスの誘致を進めたのは、和多屋別荘代表取締役の小原嘉元氏である。祖父から父へとつないだ老舗旅館の社長というバトンを7年前の2014年に受け取った。社長に就任した当時、和多屋別荘が抱えていた借金は十数億円。そのうち、各種税金や120件にも上る取引先への支払いなど、支払い期限が迫っている未払い金は3億5000万円強にも上っていたという。

2014年に和多屋別荘の代表取締役となった小原嘉元氏(写真提供:和多屋別荘)
2014年に和多屋別荘の代表取締役となった小原嘉元氏(写真提供:和多屋別荘)
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 和多屋別荘は、約2万坪の敷地に意匠の異なる約130室の客室、複数の宴会場、温泉施設、4つのレストラン、茶室のほか、社員寮など、多種多様な施設を備える。何十年という歴史の中で増改築を繰り返してきた建物は「どれだけ手を入れても、その継ぎ目から50ヵ所以上の雨漏りがあり、修繕を繰り返さなければならない」ほど老朽化していた。建物を改めて目の前にして、当時の小原氏は「十数億円の借金を抱えてオンボロ旅館をやるのか」と、途方にくれたときもあったという。「社長に就任して最初の30ヵ月間は、未払い金を返していくことだけに必死でした」(小原氏)。

塩田川にかかる渡り廊下、渡った先の水明荘まで約2万坪の広大な敷地を有する(写真:唐松奈津子)
塩田川にかかる渡り廊下、渡った先の水明荘まで約2万坪の広大な敷地を有する(写真:唐松奈津子)
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 当面の未払い金を返し終えようとした頃、小原氏は旅館がもつ可能性について気づくことになる。建物は古くても、自然豊かな敷地に約130室の部屋、10万枚以上の高級な食器もある。「そもそも、旅館の周辺には豊かな温泉、うれしの茶、肥前吉田焼という『千年、百年とかけて育まれてきた地域資源』があるじゃないか」(小原氏)。

 小原氏は、旅館と地域資源との連携を模索し始めた。2016年には、嬉野の有志メンバーで、若手茶農家が育てたお茶を自らの手で淹れ、肥前吉田焼でお茶とスイーツを楽しむという、「温泉」「うれしの茶」「肥前吉田焼」を新しい切り口で表現するイベント「嬉野茶時(うれしのちゃどき)」を企画。2019年には、これら3つの資源を旅に発展させた「ティーツーリズム」の企画・販売を開始した。

小原氏が嬉野の3大資源と胸を張る、温泉、うれしの茶、肥前吉田焼(写真提供:和多屋別荘)
小原氏が嬉野の3大資源と胸を張る、温泉、うれしの茶、肥前吉田焼(写真提供:和多屋別荘)
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「ティーツーリズム」では、広大な茶畑の中に設えられた「茶塔」ほか、美しい景色を堪能しながらお茶を飲むことができる茶空間が複数用意されている(写真提供:和多屋別荘)
「ティーツーリズム」では、広大な茶畑の中に設えられた「茶塔」ほか、美しい景色を堪能しながらお茶を飲むことができる茶空間が複数用意されている(写真提供:和多屋別荘)
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旅館をサテライトオフィスに、の発想

 この新しいイベントや旅行プランが注目を浴び、取材に来た雑誌の編集長に紹介されて出会ったのが、地域創生やブランディング事業を手掛けるイノベーションパートナーズの代表、本田晋一郎氏だった。2018年のことだ。和多屋別荘で一緒に夕食を取りながら、本田氏が「小原さんの旅館をオフィスにして働けたらいいのに」の一言を発した。これをきっかけに、和多屋別荘とイノベーションパートナーズは「旅館をオフィスにする」アイデアを検討し始めた。

「2020年からの新型コロナウイルスの感染拡大も、このサテライトオフィス構想を後押ししました。働き方の変化といった社会のニーズが高まっていることを感じましたし、社内調整もスムーズに進みました。コロナ禍で旅館宿泊業が揺らぐなか、社員全員が何とか新しいことをしないと生き残っていけない、と危機感を持って同じ方向を向くことができたのです」(小原氏)

 2020年の4月、まずはイノベーションパートナーズが和多屋別荘内の1室を第2の社屋に活用することになった。その後、冒頭で紹介した4社の進出も決まった。

 佐賀県も企業誘致に注力しており、一定の条件を満たす企業に対して設備機器や入居賃料、通信回線費などを補助するほか、地元雇用者数の人数に応じて「雇用促進奨励金」を出している。そのため、和多屋別荘にサテライトオフィスを構える企業は嬉野市と進出協定を結び、現地採用にも意欲的だ。

和多屋別荘内にあるイノベーションパートナーズの専用オフィススペース(写真:唐松奈津子)
和多屋別荘内にあるイノベーションパートナーズの専用オフィススペース(写真:唐松奈津子)
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 ここで働く古賀明香氏は、イノベーションパートナーズがサテライトオフィスを開設して以来、現地採用をした4人のうちの1人だ。毎朝9時に出社し、旅館の事務所で、サテライトオフィスの出退勤を示す木札で出勤を表示する。出社時と退勤時に必ずこの旅館事務所に訪れてするやりとりも、大事なコミュニケーションの一つだ。午前10時頃になると、同じく現地採用をされた3人の社員が、敷地内にある歩いて数分のドミトリー(部屋)から出社してくる。3人は、十数室の空きがあるという和多屋別荘の社員寮に部屋を借りて暮らしているのだ。

イノベーションパートナーズが現地採用をした、「ワーケーションコンシェルジュ」の古賀明香氏(写真:唐松奈津子)
イノベーションパートナーズが現地採用をした、「ワーケーションコンシェルジュ」の古賀明香氏(写真:唐松奈津子)
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 古賀氏の仕事は「ワーケーションコンシェルジュ」。実は、イノベーションパートナーズは和多屋別荘の入居企業であると同時に、事業パートナーでもある。同社は和多屋別荘から3部屋を借り上げ、それぞれ社員専用のサテライトオフィス、予約制で一般客も利用できるレンタルオフィス、ワーケーション会員専用のコワーキングスペースとして運営している。利用客のワーケーション滞在を快適にするため、古賀氏は空港からの車の手配や、滞在中の観光プログラムの設計、さまざまな要望に応えるためのコーディネートを行う。

 顧客対応以外の時間には、川に面した水明荘と呼ばれるグレードの高い客室の籠の椅子や、石庭や川沿いに椅子を運んだりして、その日の気分で選んだ場所で作業することもある。仕事を終えた後や休憩時など、疲れを感じたときにはリフレッシュのために館内の温泉に入ることも可能だ。

お抱えの大工による美しい内装

 筆者は「自由時間に他の社員さんや、ワーケーションで来ている人と交流するためのスペースはあるのか」と質問をして、それが愚問だったことに気づいた。「約2万坪の敷地のあらゆる場所が交流できるスペースです」(古賀氏)が答えだった。実際に、オフィスを見せてもらった。その空間は、息をのむ美しさだった。筆者が古賀氏に話を聞かせてもらったレンタルオフィスのスペースでは、大きなガラス窓越しに石庭や塩田川のせせらぎが耳に入る。オフィススペースは、旅館のスタッフでもあり、客室の改装を手掛ける専任の大工によって手を入れられた。

レンタルオフィススペース「CAVE」(上)と会員制コワーキングスペース「VOGUE」内の窓辺に面したソファ(下)(写真提供:イノベーションパートナーズ)
レンタルオフィススペース「CAVE」(上)と会員制コワーキングスペース「VOGUE」内の窓辺に面したソファ(下)(写真提供:イノベーションパートナーズ)
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