4年前に出版されたガイドブックにもかかわらず、2021年4月にも版を重ね、今なお大きな注目を集めている一冊の本がある。2017年に出版した棚沢永子さんの『東京の森のカフェ』(書肆侃侃房 しょしかんかんぼう)だ。緑あふれる奥多摩の店から、まちなかで「森」を感じさせる店まで36店のカフェを紹介、発行部数は9刷3万2000部を数える。著者の棚沢さんは今春、叔母の祖母井春子さんが営んでいた喫茶店「ケトルドラム」をご主人と共に受け継ぎ、自身もカフェを営むこととなった。「もともとは、そこまでカフェ好きではなかった」と言う彼女に、同書を執筆した経緯、取材で引き付けられたカフェの店主たちの姿、そして自身の店への思いを聞いた。

 カフェのガイドブックといえば、無類のカフェ好きが、愛するお店を紹介する本をイメージするのではないだろうか。ところが、棚沢永子さんが執筆し、2017年の出版以来、発行部数9刷3万2000部を数えるロングセラー『東京の森のカフェ』(書肆侃侃房)の刊行までの経緯は事情が異なる。棚沢さんは、いわゆる「無類のカフェ好き」ではなかったのだ。「本を執筆する前は、夫と一緒にカフェより蕎麦屋に行くことのほうが多かったかな」と彼女は言う。

2017年に棚沢永子さんが上梓したカフェガイド『東京の森のカフェ』(書肆侃侃房)(写真:大塚千春)
2017年に棚沢永子さんが上梓したカフェガイド『東京の森のカフェ』(書肆侃侃房)(写真:大塚千春)
[画像のクリックで拡大表示]

 ところが、版元となった書肆侃侃房の営業の仕事で書店回りをしていたときのこと。東京の丸善書店のベテラン店員に、こんな言葉をかけられた。「昔、東京の森のレストランの本があって、好評だったのよ。東京の森のカフェの本を出せば?」。店員がそう言ったのは、書肆侃侃房から『千葉の森カフェ』という本が出ていたからだろう。書肆侃侃房は福岡の小さな出版社で、棚沢さんは東京での仕事を手伝っていたのだ。社長にその話を伝えると、返ってきたひと言が「あなた書きなさいよ」だった。

 いやだ。それが、棚沢さんの最初の反応だった。書店回りで、日々洪水のように出版される本と戦わなくてはいけない現実を知っている。「売れるわけない」と思ったという。お店のガイドブックとなれば写真を撮らなくてはいけないが、カメラもあまり使うほうではない。人と話すのも得意ではなかった。でも、「自分の本を持つのはいいよ、楽しいよ」と言う社長の言葉に押され、ついに一眼レフを買った。

 やると決めたからには、売れる本を作りたい。若い頃、詩の雑誌の編集に携わっていた棚沢さんは、じっくり構成を考えた。春夏秋冬、どの季節でも行きたくなる店があるようにしよう。奥多摩だけでなく、都心部の人も気軽に行ける場所も加えよう。めざしたのは、「みんなに楽しく使ってもらえるガイドブック」だ。

 カフェ選びは、本やネットの口コミから情報を得ることから始まった。「どこかいいところ知りません?」と周囲の人にも聞いて回った。取材を進めるうちに、カフェの人に教えてもらったり、偶然出合ったり。自分なりのお店選びの基準も決めた。やっぱり値段が高すぎるのはいや。少しぐらい長居をしても、気持ちよく過ごさせてくれる店がいい。東京の飲食店は移り変わりが激しいからと、開店間もない店は避け、5年、10年と営業を続けている店を選んだ。むろん、取材を申し込んでも断られることもあった。最終的に掲載したのは36店だが、100店ほどのカフェに足を運んだという。

 「これはいけるかな」。そう思い始めたのは、2、3店取材をし、店の人の話を聞いてからだ。どの店主の人生にもドラマがあり、店への深い思いがあった。最初に取材したのは、知人の母親が営む青梅市の「COFFEE HOUSE らびっと」だ。店は、カナダ産の立派な丸太を使ったログハウス。これを建てることが、材木店を営んでいた女性店主の夫の夢だったのだ。敷地内に二つのカフェがある、あきる野市の老舗料理店「黒茶屋」のご主人は、若い頃に大きな不幸が相次いだが、そこから立ち上がり独学で勉強し店を開いた。築100年ほどにもなる建物を用いた茶房や秋川渓谷に面したカフェで、人々が憩う。店や訪れるお客の話を聞けば聞くほど面白く、文章にしたくなった。だから、棚沢さんは言う。「この本はカフェ案内じゃない。小さな旅と人との出会いの本なんです」

あきる野市の老舗料理店「黒茶屋」敷地内にあるカフェの一つ「野外テラス 水の音(みずのね)」(写真:棚沢永子)
あきる野市の老舗料理店「黒茶屋」敷地内にあるカフェの一つ「野外テラス 水の音(みずのね)」(写真:棚沢永子)
[画像のクリックで拡大表示]

みんなが幸せになる本ができた

 多摩川沿いにある青梅市の「Tea Room(ティールーム)」では、店を訪れ取材を申し込んだところ、その場で話を聞かせてくれた。西国分寺の「KURUMED COFFEE(クルミドコーヒー)」は、店内が一本のクルミの木に見立てられていた。かつては雑木林だった一帯の森の記憶を未来につなげたいと、金融の仕事から転身した店主がオープンした店だった。こんな本を作りたいという棚沢さんの説明に、「それならいいですよ」と取材を受けてくれたマスコミお断りの店もあった。「みなさん、本当に気さくに話をしてくれて」。人と話すのが得意ではなかった棚沢さんは、どんどん自分の本づくりが楽しくなっていった。

多摩川に臨む青梅市の「Tea Room」(写真:棚沢永子)
多摩川に臨む青梅市の「Tea Room」(写真:棚沢永子)
[画像のクリックで拡大表示]
カフェ内に「森」がある、西国分寺「KURUMED COFFEE」(写真:棚沢永子)
カフェ内に「森」がある、西国分寺「KURUMED COFFEE」(写真:棚沢永子)
[画像のクリックで拡大表示]

 最初は漫然と緑が多い場所にある店を取材していたが、次第に文化施設のカフェや、地域活性に取り組む店にも目が向くようになった。日野市の「Clare Home & Garden(クレアホームアンドガーデン)」は、「雑然と散らかっている店」というネットの書き込みが気になっていた場所だ。行ってみると、店主の夫が独学で建てた17世紀イギリスのチューダー様式の店に驚き、ビオトープの池やハーブや野菜の畑が広がる敷地に目をみはった。店は、有機農家などが無料で宿と食事を提供する代わりに家の仕事を手伝ってもらう「WWOOF(ウーフ)」という活動に参加していて、世界各国から旅行者が訪れていた。ちなみに「雑然と散らかっていた」のは、古物商であったご主人が集めた品々が、どこで何が発見できるか分からないほど詰め込まれた部屋らしい。「驚きの部屋で、本にも写真を載せたかったけど入り切らなかったんです」と残念そうだ。

日野市の「Clare Home & Garden」(写真:棚沢永子)
日野市の「Clare Home & Garden」(写真:棚沢永子)
[画像のクリックで拡大表示]
「Clare Home & Garden」には世界中から旅行者が訪れ、畑仕事やパン作りなどを手伝っている(写真:棚沢永子)
「Clare Home & Garden」には世界中から旅行者が訪れ、畑仕事やパン作りなどを手伝っている(写真:棚沢永子)
[画像のクリックで拡大表示]

 こうして、約3年半をかけ本が完成。ゲラが刷り上がり、それを持って書店を回ると「棚沢さん、こんなの作るの? すごいじゃん。フェアをやろうよ」と次々に声がかかった。本を手に、掲載されたカフェを訪れる人も目立ち、「この本を見て来るお客さんが多いから、この冬乗り切れたのよ」と喜ぶ店主もいた。「素敵な本に仕上げてくれた版元も含め、みんなが幸せになる本ができた。それがすごくうれしい」と棚沢さんは言う。

 普通なら、棚沢さんの物語はここで終わりだ。でも、彼女には「続編」があった。2021年4月末から、自身もカフェを営むこととなったのだ。場所は、多摩川にほど近い聖蹟桜ヶ丘。駅から歩いて3分ほどの場所なのに、喧噪から離れた静かな一角だ。ここに約40年前から彼女の叔母である祖母井春子さんが営んでいた店「ケトルドラム」があったのだが、高齢となり仕事を続けるのが難しくなったという。

2021年春より棚沢さん夫婦が引き継いだ聖蹟桜ヶ丘の店「ケトルドラム」(写真:大塚千春)
2021年春より棚沢さん夫婦が引き継いだ聖蹟桜ヶ丘の店「ケトルドラム」(写真:大塚千春)
[画像のクリックで拡大表示]
「ケトルドラム」の新しい主となった棚沢さんとご主人(写真:大塚千春)
「ケトルドラム」の新しい主となった棚沢さんとご主人(写真:大塚千春)
[画像のクリックで拡大表示]