「ケトルドラム」という“続編”

 『東京の森のカフェ』でも紹介した店だったが、叔母夫婦には子どもがいなかった。以前より後継者問題は話題にのぼっていて、2020年秋に店じまいの相談を受けた。棚沢さんは閉店の手伝いをするために店に通ううち、「この店をなくしたくない」と強く思うようになったという。でも、すんなり「継ぎたい」と言い出せたわけではない。なにしろ、飲食店経営のことなど何も知らない。コーヒーが大好きで、明るく人気者だった叔母の店は地元のお客に愛され、それを引き継ぐ肩の荷の重さも感じた。しかし、だからこそ最終的には「店を愛してくれるお客さんのためにも、この場を守ろう」と決意した。それから開店までは、いくら時間があっても足りないぐらい。叔母にコーヒーのいれ方、看板メニューの作り方を一から教わった。「食材なんて、切り方から教わったんですよ」と苦笑する。

「ケトルドラム」の店内には、古い陶製のランプシェードやどっしりとしたレンガ造りのカウンターがある。「今では見られない、凝った作りなんです」と棚沢さん(写真:大塚千春)
「ケトルドラム」の店内には、古い陶製のランプシェードやどっしりとしたレンガ造りのカウンターがある。「今では見られない、凝った作りなんです」と棚沢さん(写真:大塚千春)
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レトロな雰囲気が漂う入り口(写真:大塚千春)
レトロな雰囲気が漂う入り口(写真:大塚千春)
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 人気メニューの一つは、おかかピラフだ。できたてのピラフの上にかつおぶしをどっさりトッピング。パセリもご飯の山から皿の縁にはみ出すぐらい散らす。「春子さんの料理はどれも豪快。サンドイッチのベーコンなんかもベロリとパンからはみ出しているんです」と、棚沢さんは目を丸くする。最初は慣れないからと絞り込んだ祖母井さんのメニューも、徐々に復活させたい、自分たちの色も足していきたい──。目標は山積みだ。でも、「少し余裕ができたから、先日チーズケーキを焼いてみたら、おいしくできたんです」と言う棚沢さんの顔には、すでにカフェの主の表情がのぞいていた。

叔母の祖母井さん直伝のおかかピラフ。ピラフの付け合わせとしてはユニークな福神漬けも(写真:大塚千春)
叔母の祖母井さん直伝のおかかピラフ。ピラフの付け合わせとしてはユニークな福神漬けも(写真:大塚千春)
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 新しい「ケトルドラム」にはご主人の趣味の楽器が飾られていて、お客は自由に演奏できる。アコースティックギターやクラシックギターにウクレレ。共鳴胴がないサイレントギターという珍しいものもある。「演奏は下手でも子どもでも大歓迎」だが、ソングライターのお客が、ピアノを弾いてくれたこともあった。実は、店名の「ケトルドラム」は、ティンパニに代表される鍋形太鼓のこと。祖母井さんは当初、英語でやかんの意味を持つ「ケトル」という店名を考えていたが、辞書を引いたところ「ケトルドラム」という言葉が目についたのだ。この言葉には「午後の茶会」という意味もある。それを知ったとき、おそらく迷わずこれを店名と決めたのだろう。音楽という新しい店の顔は、店の歴史に溶け込むように馴染んでいく。

店内には、ご主人の楽器コレクションも飾られていて、お客は自由に演奏できる(写真:大塚千春)
店内には、ご主人の楽器コレクションも飾られていて、お客は自由に演奏できる(写真:大塚千春)
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 今も、店を訪れるお客の多くは昔からのお馴染みさん。毎日CDを持参、「これをかけて」とリクエストするお客は店のミルクプリンが好きで、必ず最後にそれを食べるそうだ。「僕は母のお腹にいる頃からこの店に来ています」と話す青年や、「僕は乳母車で来ていました」と言う小学生もいる。そうしたお客との何気ない会話が楽しいと棚沢さんは言う。「たわいのない話ができる場所って今は少ないでしょう?」

 森のカフェの店主たちの物語に魅せられてきた棚沢さんは、今、自らの物語を紡ぎ始めたのだ。

「ケトルドラム」では、書肆侃侃房の本も手に取ることができる。刊行された作品がこの春相次いで文学賞を受賞するなど、同社は今注目の出版社だ(写真:大塚千春)
「ケトルドラム」では、書肆侃侃房の本も手に取ることができる。刊行された作品がこの春相次いで文学賞を受賞するなど、同社は今注目の出版社だ(写真:大塚千春)
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