ある地方出版社が大きな注目を浴びている。福岡の出版社、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)だ。社員がたった8人の小さな出版社にもかかわらず、近年、同社から出版された本が次々と文学賞を受賞。2018年には他社の本も含め詩歌や海外文学の本を集めた書店を開き、随時イベントも開催、文学愛好家が「訪れたい場所」になっている。福岡内でも後発の出版社だった同社が、なぜこれだけの存在となったのか。書肆侃侃房代表の田島安江さん、同社が運営する本屋「本のあるところ ajiro」店長、坂脇由里絵さんに話を聞いた。

書肆侃侃房は2002年、代表の田島安江さんが50代のときに設立された会社ですが、どのような経緯で出版社を立ち上げることになったのでしょう。田島さんのバックグラウンドも含め教えてください。

田島安江さん(以下、敬称略)大学は家政科で文学とは関係がなかったのですが、本が好きで、サークル活動で文学の同人誌を作っていました。だから、福岡の大学を出たときから本を作る仕事をしたいと思っていたんです。でも、1960年代のことで、特に家政科出身となれば、先生か公務員ぐらいしか職がない。出身は大分県なのですが、そこで公務員になったら、本屋もないし、文学の話をする相手もいない地域の勤務になった。それで、2年間でその仕事を辞め、つてをたどり福岡の小さな出版社に入ったんです。

書肆侃侃房社長、田島安江さん(写真:大塚千春)
書肆侃侃房代表、田島安江さん(写真:大塚千春)
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 会社では仕事がなくて、印刷会社や広告代理店に出向させられました。でも、この経験が後の仕事に役立ちました。隔月刊のタブロイドの制作を任せられたりして、原稿依頼から印刷会社とのやりとり、写真の撮影から集金まで、とにかくなんでもしなきゃいけなかったんです。印刷会社では版下*を作ったりね。

*版下:印刷する際の原盤。かつては台紙に文字や図版の印画紙を貼って制作していた

 その後、出版社に戻り3冊ぐらい本を作ったかな。句集や詩集です。誰も本の作り方を教えてくれるわけじゃなくて、印刷会社の人に、「こんなふうにしたいんだけど、どうすればいいの?」となんでも質問しました。何冊も詩集を出されていた方の本を担当し、その頃から、自分でも詩を書いていました。

 結局、「給料が払えない」と告げられ、その会社は辞めることになり、その後結婚。二人の子どもを連れて、夫の赴任先のカナダで2年間暮らしました。英語は全くダメだったので、まずはハーレクイン・ロマンスを片っ端から読みました。恋愛小説でストーリーは単純。会話だけでできているような本ですから、「ああ、こう言えばいいんだ」と、言い回しを覚えるきっかけになりましたね。

 帰国後は校正やライターの仕事をするうちに、JTBのガイドブックを作っていた方と知り合い、一緒に九州各県の旅行ガイドブックを手掛けることになりました。それで、1冊まるごとガイドブックの仕事を請け負うのなら、会社を作ったほうがいいと思って。有限会社の作り方に関する本を見て、編集プロダクションを立ち上げました。初めての自分の会社です。

 そのうち、旅行以外の本も頼まれて作るようになったのですが、これだけ労力がかかるなら、書店に置ける本を自社で作りたいと思うようになりました。それで、知り合いだった地方・小出版流通センターの川上賢一社長に契約をしてもらうにはどうしたらいいですか、と相談したら、「年3冊以上、本出せる?」と言われて。出版社を立ち上げるなら、そのぐらいは出そうと思っていましたから、57歳になる年に書肆侃侃房を設立しました。実は、書肆侃侃房という社名は、もともと設立の10年前に自分の詩集を作るときに考えた名前なんです。「書肆」(書物を出版したり、売ったりする店)は老舗出版社の社名にあって、前からいいなと思っていました。「侃侃」は「侃々諤々(かんかんがくがく)」からで、みんなでわーわー言いながら楽しく本を作るというイメージです。でも、当時は出版社をつくろうなんて全く考えていませんでした。詩集を出すなら本に「出版社名」があったほうがいい、ぐらいの考えだったんです。

 私がコラムを書いていた西日本新聞の記者だった山本巖さんの6冊組のブックレットを手掛けたことも、会社設立に向け背中を押してくれました。

 あるパーティーで山本さんや同紙の社会部の方に会い、これまでの山本さんの記事をまとめて若い記者に読ませるような冊子(ブックレット)を作ったらという話が出て。社会部の方は山本さんの戦争特集記事を読んで、自分もこんな記事を書けるような記者になりたいと思われたそうで、話を聞いて「いいな」と思いました。ブックレットは、事前に注文を取る予約販売としたのですが、新聞に取り上げられ、「書店にはないのか」と問い合わせの電話がたくさんかかってきた。そんなことが、地方・小出版流通センターへの相談につながったんです。アドバイスを経て出版社を設立したことで、ブックレットも書店に置けるようになりました。

地方出版社としても後発組ですが。

田島当時、すでに福岡にもたくさんの出版社があり、大抵の地元の著者はすでに別の出版社との付き合いがありました。競合になるのは避けたいという気持ちがありましたし、最初から売れる本ができたわけではありません。大きな転機となったのは、テレニン晃子さんによる『ゆりちかへ ママからの伝言』(2007年)です。がんに侵された著者が、幼い娘「ゆりあ」に、自分の思いを残したいと筆を執った一冊で、社員の一人がこういう本を出したい人がいると案を出したもの。その社員が出産を控えていたため、私が著者の病室に通いながら編集を担当しました。晃子さんは抗がん剤治療をしながらの大変な作業でしたが、メールでやり取りができる時代になっていたことが大きな助けとなりました。

テレニン晃子さん『ゆりちかへ ママからの伝言』。リリー・フランキーさんが帯に言葉を寄せた
テレニン晃子さん『ゆりちかへ ママからの伝言』。リリー・フランキーさんが帯に言葉を寄せた
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 この本の帯のことばは、著書『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』(2005年)がミリオンセラーとなっていたリリー・フランキーさんが書いてくださいました。晃子さんが切望されたんです。最初はとても無理だと思ったんですが、福岡にはブックオカ(福岡でさまざまなブックイベントを行っている団体)の「激オシ文庫」という書店横断の文庫本のフェアがあり、購入時にもらえるブックカバーが毎年変わる。2007年はたまたまリリーさんがイラストを手掛けられていて、フェアの担当の方からファクス番号を聞いて、著者にその思いを書いてもらいリリーさんの事務所に連絡したんです。そうしたら、しばらくして「書けるかどうか分かりませんが、ゲラを送ってもらえますか?」と事務所の方が返事をくださった。それで、ある休みの日に会社にいたら、ピーッとリリーさんの原稿がファクスで流れてきました。

 成功するかは分からないけれど、本人にさえ届けば願いがかなうこともあると思いました。ダメもとじゃないですか。それで一ついいことがあれば、次のいいことを呼んでくれる。『ゆりちかへ』は著者が亡くなる前に出版ができ、7万部を超える地方出版社としては異例のベストセラーとなりました。新聞やテレビにも取り上げられ、ドラマ化もされています。

2011年に出版された短歌の本も注目を浴びました。

田島26歳で亡くなった夭折の歌人、笹井宏之さんの本を出しました。オンデマンド出版で第1歌集が出ていたのですが、第2歌集を出す予定が立ち消えになったと聞いて。以前から、「すごい歌人がいる」と思っていたので、私が作りたいと手を挙げたんです。それで、オンデマンド出版だった第1歌集もセットにして、2冊一緒に書店で売りましょうと企画しました。別の出版社から出た笹井さんの著書が年末に全国紙で紹介されることが決まっていて、翌年1月の命日に出すことにしていたこの本も絶対に注目されると考えました。

 当時、短歌は自費出版が多く、周囲からは出版は難しいのではと言われました。でも、ツイッターに「歌集が出たら欲しい、もっと彼の歌を読みたい」という声がたくさん上がっていたので、きっと多くの読者がいると思って。結果として各2000部という初版はあっという間になくなり、今でも版を重ねています。

田島さんが手掛けた笹井宏之さんの歌集。右が第1歌集『ひとさらい』、左が第2歌集『てんとろり』。命日に2冊同時発売された(写真:大塚千春)
田島さんが手掛けた笹井宏之さんの歌集。右が第1歌集『ひとさらい』、左が第2歌集『てんとろり』。命日に2冊同時発売された(写真:大塚千春)
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