長崎港からほど近い島「高島」に、関東から移住した音楽グループがある。「RAINBOW MUSIC(レインボーミュージック)」だ。移住してお客さんとして振る舞うのではなく、地域にどっしりと根を下ろしながら、過疎に悩む高島の魅力を発信し続けている。彼らは何にひかれ、この島に何を恩返ししようとしているのか。メンバーそれぞれに“高島への愛”を語ってもらった。

 594もの島を有する長崎県は、島の数日本一として知られる。対馬、壱岐、五島列島などが特に有名だが、近年では軍艦島(端島)が新たな観光スポットとして脚光を浴びている。

 その軍艦島に最も近い有人島が、高島である。明治から昭和にかけて軍艦島とともに炭鉱で栄えた島で、両島の炭鉱遺産は2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として世界文化遺産に登録された。

高島の高台からは海の真ん中に軍艦島が見える
高島の高台からは海の真ん中に軍艦島が見える
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 高島は実に魅力的な島だ。長崎港と高島を結ぶ高速船は1日8便もあり、わずか約35分でアクセス可能。これだけ長崎市街地に近い場所に、世界文化遺産があり、コバルトブルーの海が広がる高島海水浴場があり、大量の釣果が期待できる高島飛島磯釣公園があり、軍艦島が見える丘があり、甘くておいしい名産の高島トマトの畑がある。

高島港の風景
高島港の風景
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たった1回の来島で決めた島への移住

 こうした歴史の重みと豊かな自然を肌で感じられる高島にひかれ、関東から移住した音楽グループがいる。それが、今回の主役であるRAINBOW MUSIC(レインボーミュージック)の面々だ。

 RAINBOW MUSICのメンバーは、NiNi(ニーニ)、nonco(ノンコ)、PARA(パラ)、ANCHE(アンチェ)の4人のMC/ボーカルに、DJのCaZya(カズヤ)を加えた5人。レゲエやスカ(1950年代に中米ジャマイカで生まれた音楽)をベースに、ヒップホップ、R&B、ダンスの要素を巧みに融合した親しみやすいポップミュージックを得意とする。

 2008年に福島県で結成。当初は宮城県仙台市内を中心に活動していたが、東日本大震災を機に首都圏へと軸足を移した。2012年には福島時代の恩人が佐賀県に移住した縁から福岡、佐賀、長崎の九州ツアーを敢行。その後、2013年3月に高島に初来島。それからたった4ヵ月後に、リーダーのNiNiが当時住んでいた千葉から高島への移住を決めた。

2019年に長崎市内で行ったワンマンライブにて
2019年に長崎市内で行ったワンマンライブにて
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 「一旗揚げようと関東に引っ越したつもりが、仙台時代には80本あった年間ライブ数が20〜30本ほどに減ってしまい、音楽に取り組む時間が少なくなり、生活に追われるようになったんです。自分たちが本当に向き合いたいのは音楽なのに、都会で一体何をやっているんだろう? このままではRAINBOW MUSICがなくなる、そんな危機感があったのも事実です。そうした感情も影響したのか、初めて高島の港に下り立った瞬間、『あ、オレはここに移住するな』という感覚がありました。ここなら音楽に集中できると思えた。そこで高島に訪れた後のメンバー会議で『ここに移住するのはいいアイデアだと思うんだけど』とすぐに提案しました」(NiNi)

先陣を切って高島に移住したリーダーのNiNi
先陣を切って高島に移住したリーダーのNiNi
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 一方、NiNiの妻でもあるnoncoはこう振り返る。

 「男性メンバーは、漫画の『ONE PIECE』のように『宝島見つけた!』とはしゃいでいましたね(笑)。私は毎日スタバに行くほど都会が好きだったので『こんなコンビニもない島に住んでどうするの?』というのが正直な気持ちでした。でも、リーダーは本気だった。1回高島に来ただけなのに『先に移住するから、後から来てくれ』と言い残してすぐに移住したんです。当初は私も月に1回お試しで高島を訪問していましたが、最後には覚悟を決めました。ところが、いざ住んでみると高島に永住したいと思うまでに意識が変わりました。どうして、こんなにも暮らしやすいんだろうって」(nonco)

高島に永住したいと笑顔で語るnonco
高島に永住したいと笑顔で語るnonco
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 先陣を切ったNiNiは将来的なメンバーの移住を実現するため、長崎市の移住促進施策を活用しながら雇用と住居の確保に奔走。それぞれの事情があるため時期はバラバラだったが、2017年1月にPARAが引っ越してきてメンバー全員の移住が完了した。なかでも、千葉で育った最年少のCaZyaが最も乗り気だった。

 「もともと僕はRAINBOW MUSICのいちファンでしたが、移住をきっかけにメンバーに加入しました。音楽をやりながら生活することが夢だったので、移住の話には二つ返事で賛成しました。下見にすら来ていません(笑)。千葉にいた頃には長崎の島で暮らすなんて想像もつきませんでしたが、人生でこんなチャンスはめったにないじゃないですか。DJとして後ろからメンバーたちの歌う姿を見ていると、高島に来てからみんな本当にイキイキしていると感じています」(CaZya)

千葉で育った最年少のCaZya
千葉で育った最年少のCaZya
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 PARAとANCHEは結婚して子どもがいる。しかもPARAは千葉、ANCHEは神奈川の出身で、ずっと都会で育ってきた。不安はなかったのだろうか。

 「仕事も住まいもリーダーが決めてくれていたので、迷いはなかったですね。当時は彼女だった奥さんも『大丈夫でしょ』ぐらいのノリで(笑)。高島に来てからのほうが断然、音楽活動に弾みがつきました。かなり真剣に、音楽に向き合うことができていると思います」(ANCHE)

 「移住を決めた頃に子どもを授かったこともあり、僕は3年遅れで島に入りました。みんなが移住して2年目ぐらいに高島のライブに呼んでくれたんですが、そのとき『何でオレだけこの場所にいないんだろう?』と思ったんです。帰ってから奥さんに移住したいと話したら、『ようやく覚悟を決めたんだね。あなただけが決めてなかったんだよ』と背中を押されて。移住して改めて感じたのは、自分がやりたいことに集中できる環境は素晴らしいということ。僕は、高島に夢とロマンを追い求めて来ていますから」(PARA)

(左から)同時期にメンバー入りしたPARAとANCHE
(左から)同時期にメンバー入りしたPARAとANCHE
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高島あってこそのRAINBOW MUSIC

 人口340人ほどの島に移住してきた音楽グループは、それだけで注目の的になった。地元テレビ局や新聞社の取材を受け、長崎県を中心に九州各地の音楽イベントに積極的に出演。「メディアから市役所まで、いろんな人が歓迎してくれました。昼のお祭りに呼ばれるようになるなんて、夢にも思いませんでした。今までに訪れた土地では、こんなにおもてなしを受けたことはありません」とNiNiは言う。

 創作活動も加速した。高島のことを歌った“high island story”(2014年)と“タカシマタカラジマ”(2015年)は島の人たちが口ずさむアンセム(賛歌)となり、毎年夏に開かれる島内の音楽フェス「タカシマタカラジマ」では大合唱が起きる。「最初はレゲエもライブも知らなかったおじいちゃんやおばあちゃんが、“high island story”が大好きと言ってくれるまでになりました。つくづく、音楽の力はすごいものです」(nonco)

島内で行ったイベントの様子。彼らの音楽を聴きに老若男女さまざまな島民が会場に集まる
島内で行ったイベントの様子。彼らの音楽を聴きに老若男女さまざまな島民が会場に集まる
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 彼らがこれだけなじんでいるのは、アーティスト然とした“お客さん”ではなく、高島に根を張った生活を送っているからだ。NiNiはRAINBOW MUSICや高島在住のミュージシャンのSickle Oneが所属する音楽事務所「NANAIRO PRODUCTION」を運営する傍ら、夏には海水浴場やキャンプ場の責任者を務めるなどして、島のイベントに深く関わる。CaZyaはアシスタントとして、リーダーの活動を補佐する。

 国立音楽大学を卒業したnoncoは長崎市内でのボイストレーナーのほか、高島と隣の伊王島でミセス合唱団の指揮者として活躍。地元の高島中学校で音楽教師を務めた経験もある。ANCHEは高島トマトを栽培する「たかしま農園」の正社員として農業に従事。多才なPARAは高島港ターミナル内の食堂経営、絞り染めTシャツの制作・販売、さらに一級小型船舶操縦士の資格を有する漁師でもある。今回の取材場所になったRAINBOW MUSICのスタジオも、PARAが内装を手がけたものだ。

noncoが指揮をする高島70's合唱団と伊王島カメリア合唱団
noncoが指揮をする高島70's合唱団と伊王島カメリア合唱団
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 「高島があってこそ、僕らが存在しているのです。最初からきちんと受け入れてくれたことに感謝しています。そして、メンバー全員が来てくれたことにも。このスタジオは自分たちで作りましたが、たかしま農園の人たちが無償で材料を運搬してくれました。人と人がつながっていれば何とかなります。高島に来ていなかったら、おそらく、とっくにRAINBOW MUSICはなくなっていたと思います。

 都会にいる頃は千葉と神奈川に住んでいたので一緒にいる時間が限られていましたが、高島に来てからは好きなときにスタジオに集まれるようになりました。とはいえ、もともとがソロで活動していたメンバー同士だし、MCとDJのグループなので、バンドのようにいっせーのせで練習をするわけではない。ほどよい距離感を保ちながら、音楽を楽しんでいます。

 虹(レインボー)ってそういうものじゃないですか。すべてが重なったときに一つひとつの色が濃くないと成立しませんよね。クリエイティブな仕事をするのに、普通の会社と変わらない組織だったらいい作品は⽣まれません。好きな⾳楽を突き詰めているうちに、⾃然と⾳楽が仕事になるほうがいい」(NiNi)

PARAが主導でリノベーションを行ったRAINBOW MUSICのスタジオ
PARAが主導でリノベーションを行ったRAINBOW MUSICのスタジオ
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みんなの協力があれば、人口3倍も夢ではない

 2021年に長女が生まれたnoncoは「娘が生まれたとき、島のみんなが泣いて感動してくれたことが本当にうれしかった」と振り返る。ほかのメンバーも「社会と関わる意識がぐんと高まった。若い僕らが何を求められているのかが明確にわかるようになりました」(ANCHE)、「高島に来るまでは地元愛を知りませんでしたが、今は素直に『高島はいいところ』と自慢したくなります」(PARA)と、すっかり島の人となった。

子どもが生まれると、島の人たちわが子のように喜んでくれたそう。子どもは今や島内のアイドル的存在だ
子どもが生まれると、島の人たちがわが子のように喜んでくれたそう。子どもは今や島内のアイドル的存在だ
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 長崎市秘書広報部 部長の原田宏子さんは、音楽家たちの移住がもたらした効果について次のように話す。

 「高島は長崎市からこんなに近い場所にあるのに、どんどん人口が減っていました。彼らのような若い人たちが“住みやすい”との理由から移住してくれたことは、まさに青天のへきれきでした。RAINBOW MUSICはたくさんの仲間を増やして、さまざまなイベントで高島の魅力を発信してくれています。間違いなく、高島の可能性が広がりました」(原田さん)

 RAINBOW MUSICは島内のライブで、「島の人口を1000人にしよう!」と呼びかけている。今の人口の約3倍だ。「彼らの歌には、1000人を達成するかもしれないと思わせる力があります。RAINBOW MUSICが高島で地域と交流しながら音楽を続けることを、子どもも大人も誇りに感じているはず。縁もゆかりもない人たちが永住まで考えて頑張っている姿に、島の人たちも感動しているのだと思います」(原田さん)

長崎市秘書広報部 部長 原田宏子氏
長崎市秘書広報部 部長 原田宏子氏
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 NiNiは「1000人はたったの3倍。決して実現できない数ではない」と期待を寄せる。高島に来てからはミュージシャンだけでなく、アイデアマンの才能が開花。「朝から晩まで高島のことを考えている」と語る彼の頭の中には、歴史、音楽、アート、スポーツが一体化した島の未来図がある。

 「ここは明治時代に近代炭鉱が始まった事始めの島。次は、僕らの時代のコンテンツで事始めを仕掛けていきたい。そのためにもこちらから恩返しのアイデアを提案して、高島を活性化させようと考えています。例えば島内の歴史とアートをクロスさせるだけでも大きな武器になるし、島に点在するプールの跡地をスケボーパークに転換するのも面白い。僕は夢を語って人と人をつなげることが得意ですが、実効力を持たせるためには行政や企業の協力が不可欠です。島民、行政、企業の三つがうまくかみ合えば、よりいろんなことが実現できる、そう信じています」(NiNi)

 原田さんは「何かを動かすときには、外の風が非常に大事。RAINBOW MUSICの関わり方は奇跡に近い出来事」と評した。その奇跡は、ひょっとして始まったばかりなのかもしれない。RAINBOW MUSICと高島が紡ぐ“high island story”は、これからも続く。