静岡県沼津市の「地域おこし協力隊」として戸田(へだ)地区に赴任し、「深海魚」を活用した新しい事業に取り組んでいる女性がいる。「しずおかの海PR大使」の青山沙織さんだ。観光コンテンツの企画・運営や新しい特産品の開発に従事しながら、“食べられない”深海魚にも着目し、その販売事業を軌道に乗せた。魚の知識もなく、兵庫県出身の青山さんがなぜ活動拠点に戸田地区を選んだのか。そこで手に入れた地域の人とのつながりや、深海魚をブランド化する事業への思いを聞いた。

世界一大きなタカアシガニが水揚げされる「深海魚の聖地」

 沼津市の最南部、伊豆半島の北西部に位置する戸田地区。面積の8割以上を山林が占め、主要産業は農林水産業だ。農林業では柑橘類の樹園地も多く、近年はみかんの原種といわれるタチバナの栽培とその加工品づくりに力を入れており、水産業では底引き網漁(トロール漁)、まき網漁、刺し網漁が盛んに行われている。戸田漁港は海底が起伏に富み、湾としては最深部が日本一深い駿河湾に面しているため、深海魚や現生の節足動物としては世界最大のタカアシガニが水揚げされることで知られている。

戸田港から突き出た御浜岬の内側にある美しい御浜海水浴場。緑深い松林越しに、駿河湾を挟んで富士山を望める贅沢なスポットだ。戸田健康の森からの眺め(提供:沼津市)
戸田港から突き出た御浜岬の内側にある美しい御浜海水浴場。緑深い松林越しに、駿河湾を挟んで富士山を望める贅沢なスポットだ。戸田健康の森からの眺め(提供:沼津市)
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 底引き網漁は、巨大な袋網を狙った水深まで沈めて船で引くことで、底にいる魚介類を一網打尽にする漁だ。海底の起伏を熟知していなければできず、時間と手間がかかる漁である。資源保護の観点から、網を入れるのは1日5回と決められており、5月中旬から9月初旬までは禁漁になっている。漁期が限られていても、戸田地区では古くから底引き網による深海魚漁が地域の暮らしを支えてきた。

 「深海魚」というと、光の届かない暗い海の底で独特の進化を遂げたグロテスクな魚をイメージする人もいるかもしれないが、一般には水深200mより深い海域に生息する魚介類の総称とされている。私たちがよく口にするアジやサバ、マグロなどは表層を泳ぐ魚だが、深海にも食用としてなじみのある魚は数多く生息している。

 例えば、キンメダイ、タチウオ、オヒョウ、ハタハタ、キンキ(キチジ)、ハマダイ、ノドグロ(アカムツ)、アコウダイ、ヒレグロ(ナメタガレイ)、アンコウ、メヒカリ(アオメエソ)、ミズダコ、ニギス、ドンコ(エゾイソアイナメ)、タラ類(特にスケトウダラ、マダラサ)などだ。高値で取引されている高級魚も少なくない。

 もちろん食べられない魚介類も含まれるが、さまざまな深海魚が水揚げされることから、沼津市では戸田を「深海魚の聖地」とうたい、重要な観光アイテムとして重視してきた。

戸田で提供されるタカアシガニと深海魚料理の一例(提供:沼津市)
戸田で提供されるタカアシガニと深海魚料理の一例(提供:沼津市)
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 しかし近年、漁業者の高齢化によって底引き網漁を行う漁船は減少傾向にある。戸田の人口そのものがこの10年で1,000人ほど減り、3,000人を割った。約半数が65歳以上で、空き家も多く問題になっている。

 そうしたなかで沼津市は、深海魚を活用して戸田の地域再生を担うことを目的に、地域おこし協力隊を募集した。それに応募したのが青山沙織さんだった。2018年4月、沼津市が委嘱した地域おこし協力隊として、青山さんは3年の任期で戸田地区にやってきた。

地域おこし協力隊として深海魚をテーマに活動を開始

 青山さんは兵庫県尼崎市の出身。宝塚造形芸術大学を卒業後、いろいろな職を経験し、ワーキングホリデーを利用してオーストラリアに1年間滞在したり、フィリピンに語学留学したりもした。また、沖縄や鹿児島県の与論島、神奈川県の江の島に住んでいたこともある。大学でデザインを学んだので、ゆくゆくはモノづくりをメインに、自分で何かを発信する仕事をしたいと思っていた。その足掛かりになると考えたのが、地域おこし協力隊だった。

 沼津市を選んだのは、海沿いで暮らしたかったことと「深海魚でまちおこしをする」というミッションに惹かれたからだ。青山さんにとって深海魚は「パワーワード」だという。モノづくりのモチーフにもなり得るし、協力隊の任期が終わって自立する時にも、深海魚なら他のものと差異化した事業を起こしやすいのではないかと思ったのだ。こうして沼津市の意図と青山さんの希望が合致し、日本で唯一の深海魚担当地域おこし協力隊が誕生した。

 青山さんは着任してすぐに、深海魚の展示室「ヘダトロール」の管理・活用を任された。「ヘダトロール」は、戸田漁業協同組合の直売所の横にある。さほど大きくない水槽だったが、どうしていいか分からなかった。管理に手こずっている青山さんを見かねて手を貸してくれたのが、後に魚を卸してくれるようになる漁師さんだった。おかげで「ヘダトロール」でいろいろな深海魚の飼育を続けられるようになった。

漁協の直売所の一角にある展示室「ヘダトロール」。小さな水槽のほか、資料や標本などが展示されている。協力隊の任期が終了した現在も、青山さんはボランティアで管理を続けている(撮影:中島有里子)
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漁協の直売所の一角にある展示室「ヘダトロール」。小さな水槽のほか、資料や標本などが展示されている。協力隊の任期が終了した現在も、青山さんはボランティアで管理を続けている(撮影:中島有里子)
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漁協の直売所の一角にある展示室「ヘダトロール」。小さな水槽のほか、資料や標本などが展示されている。協力隊の任期が終了した現在も、青山さんはボランティアで管理を続けている(撮影:中島有里子)
漁協の直売所の一角にある展示室「ヘダトロール」。小さな水槽のほか、資料や標本などが展示されている。協力隊の任期が終了した現在も、青山さんはボランティアで管理を続けている(撮影:中島有里子)
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 地域おこし協力隊として、地域になじもうと祭りやイベントに積極的に参加した。漁師とのつながりが形成された結果、滋愛丸、日之出丸、海光丸といった漁船に乗せてもらうことができた。魚の仕分けも経験した。

 青山さんはデザインのスキルを生かした企画を立ち上げた。1年目には駿河湾の「深海魚アートデザインコンテスト」を企画・主催し、2019年2月には「深海魚フェスティバル」を開催。ヘダトロールのイラストを用いたトートバッグやサコッシュ、缶バッジなどのグッズの製作も開始した。

青山さん考案のトートバッグ、缶バッジなどの「深海魚グッズ」(撮影:中島有里子)
青山さん考案のトートバッグ、缶バッジなどの「深海魚グッズ」(撮影:中島有里子)
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