東京から車で約1時間半の山梨県富士吉田市はいま、多くのクリエイターを惹きつけている。まちなかからは目の前に迫る富士山が見え、唯一無二の風景は魅力にあふれる。人々が集まるのは当然と思われるかもしれない。しかし、そんな風景も長年、人々に振り返られることがなかった。いま注目が集まっている背景には、予算を割けないなか、どうしたらまちを知ってもらい、関心を持ってもらえるかに腐心してきた行政マンの姿があった。
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 山梨県富士吉田市は、クリエイターを引き付けるまちだ。2021年末から2022年1月にかけては、アート展と機屋(はたや)のイベント「FUJI TEXTILE WEEK(フジ テキスタイル ウィーク)を開催。実行委員長を務めた八木毅さんは、フランスの美術大学院出身の移住者で、副実行委員長の杉原悠太さんも海外在住経験を持ち、同市に移住したグラフィックデザイナーである。

【前編記事「イベントの裏に隠されたシンプルな再生への秘密」はこちら】

 昨年には市内の商店街に、著名アートディレクターの千原徹也さんが代表を務めるデザイン会社「れもんらいふ」がプロデュースした喫茶店がオープン。2022年5月末からは、千原さんが主宰するデザイン塾「吉田塾」が同市で開催されることになり、演出家のテリー伊藤さんを皮切りに、幅広い分野から第一線で活躍する著名人がゲストとして参加する。

 もちろん、一朝一夕でそんなまちになったわけではない。千年以上織物の産地として名を馳せてきた同市も、安い外国製品に押されて産業が衰退した。中心商店街は、いまもまだ、「シャッター店舗」が目立つ。

 しかし、まちは着実に新しい活力を育んできた。長い月日の間に、同市には多くのクリエイターやまちづくりに意欲を燃やす若者たちが関わるようになった。しかし、そこに欠かせなかったのは、富士吉田生まれの行政マンたちの粘り強い取り組みだ。

 原点は2000年、富士吉田市の市制施行50周年を祝った年に遡る。同市ではこの年、「『まち』がミュージアム!」というイベントが開催された。市全体をミュージアムに見立て、シャッターが閉じていた空き店舗などに現代美術作家のインスタレーション(展示空間を使った3次元的表現)を展示する内容で、市内のギャラリー「ナノリウム」が中心となり開催した市民イベントだった。

写真は2007年の「『まち』がミュージアム!」で旧・下吉田町役場に展示された、堀尾貞治さん(絵)と周治央城さん(彫)共作による木版画(写真提供:「まち」がミュージアム! 実行委員会)
写真は2007年の「『まち』がミュージアム!」で旧・下吉田町役場に展示された、堀尾貞治さん(絵)と周治央城さん(彫)共作による木版画(写真提供:「まち」がミュージアム! 実行委員会)
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「『まち』がミュージアム!」では、写真のようなミュージアムショップも開設され、富士山関連グッズなどを販売した。写真は2007年の同イベントの様子(写真提供:「まち」がミュージアム! 実行委員会)
「『まち』がミュージアム!」では、写真のようなミュージアムショップも開設され、富士山関連グッズなどを販売した。写真は2007年の同イベントの様子(写真提供:「まち」がミュージアム! 実行委員会)
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思いを込めた企画が10年続くイベントに育った

 市制50周年にふさわしいイベントを市が公募したなかから選ばれた市民イベントだったが、企画したのは当時、富士吉田市秘書課勤務だった渡辺一史さん。渡辺さんは同市で呉服屋を営む家に生まれ育った、織物産業に勢いがあった時代を知る生粋の富士吉田市民だ。

現在は、富士吉田市外二ヶ村恩賜県有財産保護組合総務部理事の渡辺一史さん。「『まち』がミュージアム!」にはアンテナが高い人たちが面白がって来てくれた、と話す(写真:大塚千春)
現在は、富士吉田市外二ヶ村恩賜県有財産保護組合総務部理事の渡辺一史さん。「『まち』がミュージアム!」にはアンテナが高い人たちが面白がって来てくれた、と話す(写真:大塚千春)
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 2000年といえば、地域芸術祭の成功例の筆頭に挙がる新潟県の国際芸術祭「越後妻有 大地の芸術祭」第1回が開催された年。その後は瀬戸内海の島々を会場とした「瀬戸内国際芸術祭」が始まるなど、地方の芸術祭が大きな話題を集めるようになった。

 いまでこそ、まちおこしとして地方自治体がアートイベントを手掛けることは珍しくないが、当時はまだ周囲の理解を得にくいであろう大胆な企画。「(応募に当たり)いかに“うそ”の申請書をつくって通すかが僕の役目でした」と渡辺さんは笑う。「とにかく、廃れていく『シャッター通り』をどうにかしたい。訪れた人がこのまちを面白いと思うきっかけをつくることができればいいと思ったんです」

 どんな“うそ”だったかは伏せるが、彼は思いを込めた企画書で、市から200万円の補助金を得た。「オープニングセレモニーをやったり、市長を呼んだりはしませんでした。やったら『何をやってるんだ』と怒られちゃうから(笑)。でも、市外から『面白いことをやっている』と人が来てくれれば、それは完全に“事実”。それをメディアにリリースし、取材を受け、記事にしてもらう。著名な文化人の方々にも、面白がってもらえました」

 「アバンギャルドなイベントの内容を、行政に理解はしてもらえなくても、盛り上がっているという実績はつくれた。シャッターを開けてもらって展示スペースとした物件は、イベント終了後に貸してほしいと、飲食店や洋服店になったりした。そうすれば、行政にも評価してもらえるわけです」。山梨在住のダンサー・田中泯さんがまちを舞台に踊ったこともある「『まち』がミュージアム!」は、2009年まで10年続くイベントとなった。

 そんな渡辺さんも、かつては自分の住むまちが好きになれず、東京で就職。帰郷してからも、車に品川ナンバーを付けていたときがあるそうだ。「でも、市役所に勤めるようになり、子どもが生まれたことがターニングポイントになりました。子どもと一緒にまちを散歩すると、それまで気づかなかった路地の面白さが目に付くようになった。子ども目線で歩くので、いまは空き家になっているけど、ここは昔、団子屋でよく通ったなぁなどと、自分の子どもの頃も思い出す。そうした思いがこの企画(「『まち』がミュージアム!」)につながったんです」

富士吉田の商業地区の玄関口で、かつては織物輸送の一大拠点だった下吉田駅。いまは静かな佇まいを見せる(写真:大塚千春)
富士吉田の商業地区の玄関口で、かつては織物輸送の一大拠点だった下吉田駅。いまは静かな佇まいを見せる(写真:大塚千春)
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大学との連携から「クリエイターのまち」へのきっかけが生まれた

 同市に大きな転機が訪れたのは2007年。同年、慶応義塾大学と連携協定を結んだのだ。2009年に同プロジェクトのリーダーとなり、連携を大きく前へ推し進めた現・富士吉田市企画部部長の水越欣一さんは、次のように説明する。「大学と連携したといっても、何ができるのか誰も分からない。大学にはさまざまな知財があり、いろいろなルールに基づいて使うことができるが、どのようにアプローチすればよいのか分かりませんでした。そんな状態で議論をしていたので、『連携でこんなことができるのでは』と職員の間で案が挙がっても、その先に進めない。そこで、大学に富士吉田市の職員を送り込むことにしたんです」。職員の受け入れは、慶応義塾大学側にとっても初めてのケースだったという。

富士吉田市企画部部長・水越欣一さん(写真:大塚千春)
富士吉田市企画部部長・水越欣一さん(写真:大塚千春)
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 そうしたなか、同大学の研究チームが、富士山信仰のまちとしての同市の歴史に着目。「現代版・富士講」というコンセプトに沿った周辺都市との関係づくりを提案する。富士講とは、富士山に登るには多大な費用と時間がかかった江戸時代、お金を集め代表者に信仰登山を託した仕組みで、当時は関東全域から富士吉田に人々が訪れ、御師(参詣の世話をする者)の家に泊まり富士登山に向かった。「昔はどのように外からの人を迎えて、おもてなしをし、どんな連携が生まれたか。それを踏まえながら、『現代版・富士講』の展開を考えた内容でした」(水越さん)

 提案内容を基に2013年に設立されたのが、「富士吉田みんなの貯金箱財団」。資金を集め、地域活性化プロジェクトに取り組む団体だ。同市に移住して運営に携わったのは、研究チームのメンバーだった齊藤智彦さん。中国の美術大学で彫刻を学び、海外での活動を経て同大に入学した異色の経歴の持ち主である。「幅広い経験があるので、連携プロジェクトのリーダー的存在だった。市が移住定住の政策を進めるなかで、クリエイターが集まりやすくなった最初のきっかけでした」と水越さんは振り返る。

 立ち上げの翌年には同財団などが中心となり「富士吉田地域デザインコンペティション」を開催。いくつかの部門があるなかで、市内の旧・製氷工場のリノベーション案を募った部門で東京理科大学のチームが最優秀賞を受賞した。「チームに参加した学生の一人は起業し、現在、富士吉田市内に設計事務所を開いています」と水越さんは話す。まるで、同市にはクリエイターを引き付ける強力な磁場があるかのようだ。