愛知県豊橋市にバスの来ないバス停がある。設置されているのは認知症カフェ「ぽかぽかの森 アンキカフェ」のある敷地内だ。実際に使われていたバス停の看板を提供したのは、豊橋市に本拠を置く豊橋鉄道株式会社。なぜ認知症カフェにこのようなバス停が設置されたのか。今回、話をお聞きしたのは豊橋鉄道総務部次長の森下干城(もりした たてき)さんと同係長で保健師の赤川景子(あかがわ けいこ)さんの2人。そのお話から、今後さらに増加が予想される認知症に向けた公共交通事業者の取り組みが見えてきた。

バスの来ないバス停が設置された理由

 厚生労働省によると2020年現在、日本における65歳以上の認知症の推計患者数は600万人にのぼるという。2025年には、戦後すぐのベビーブーム期に生まれた、いわゆる「団塊の世代」が75歳以上の後期高齢者となり、高齢者の約5人に1人、およそ700万人が認知症になると言われている。

 認知症は誰でもなりえることから、認知症への理解と認知症になっても暮らしやすい地域づくりは重要な課題だと言えよう。その一環として、各地に認知症カフェが設置されるようにもなった。

 認知症カフェは認知症の人やその家族が地域の人と交流したり、専門家からの情報を共有するなど、互いに支え合い、安心して暮らすことができる地域コミュニティーづくりの拠点として機能している。元々は欧州で始まったとされるこの認知症カフェは、認知症患者の増加を踏まえて厚生労働省が各地に設置を呼びかけた。その結果、地域の公民館、飲食店、介護施設などが名乗りを上げ、今やその数は全国で約8000ヵ所にもなっている。

 2021年6月に豊橋市神野新田町にオープンした「ぽかぽかの森 アンキカフェ」もそのひとつ。豊橋市は愛知県の南東部、太平洋に面した渥美半島の付け根に位置し、人口約37万人を擁する中核都市である。高齢化率は、人口密度が高い市街化区域内においても上昇傾向が見られるという。市内に10軒近くある認知症カフェの中でもアンキカフェがユニークなのは、敷地内に“バスの来ないバス停”が設置されていることだ。

アンキカフェの入り口にある待合所とバス停。アンキカフェの「アンキ」は、三河地方の方言で「安心する、ホッとする」を意味する言葉だそうだ(写真撮影:中島有里子、以下特記なき写真以外同)
アンキカフェの入り口にある待合所とバス停。アンキカフェの「アンキ」は、三河地方の方言で「安心する、ホッとする」を意味する言葉だそうだ(写真撮影:中島有里子、以下特記なき写真以外同)
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 実は、このバス停のモデルはドイツにあった。ドイツ・デュッセルドルフのとある養護施設では、アルツハイマー型認知症の患者がすでに存在しない自宅や家族の元に帰ろうして、たびたび行方不明になってしまうことがあり、その対策に苦慮していた。あるとき、職員はそんな患者たちが移動手段として利用しようとするのが、公共交通機関であることに気づいたという。若い頃からの生活習慣が記憶の片隅にあるからだろう。バス停で待っていれば帰ることができる、と安心するようなのだ。

 そこで、施設のすぐ近くにバス停の看板を立てたそうだ。もちろん本物ではないのでバスは来ないけれど、患者は家に帰れると思って心穏やかにバスを待つ。職員は無理に引き止めずに寄り添う。そのうちに、なぜにそこにいるかということを忘れてしまうので、職員の声がけに従って施設に戻るのだという。

 ドイツ語でこのバス停の設置を「Notlüge(ノートゥルーゲ)」という言葉で表す。日本語に訳すと「罪のない嘘」という意味だ。ドイツ大使館も2020年9月21日の「世界アルツハイマーデー」にTwitterで、ドイツにはこうしたバス停が数多くあることを発信していた。アンキカフェでは認知症患者への理解の象徴としてこれを模し、バス停を設置したのだった。

コロナ禍を逆手に取り、認知症研修を内製化

 設置の趣旨に賛同し、使われていないバス停の看板を提供したのが豊橋鉄道である。同社グループは新豊橋駅〜三河田原駅を結ぶ渥美線、市内路面電車、路線バス・高速バスなどを運行し、地域住民の暮らしを支える公共交通事業者だ。同社はコロナ禍を逆手に取り、認知症対応への活動を積極的に推進している。それが認知症カフェの看板と何か関係があるのだろうか。

豊橋市内を走る豊橋鉄道の路面電車。大正14(1925)年に開業し、100年近く市民の足として親しまれている。レトロで優しい豊橋のシンボルだ
豊橋市内を走る豊橋鉄道の路面電車。大正14(1925)年に開業し、100年近く市民の足として親しまれている。レトロで優しい豊橋のシンボルだ
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 2008年ごろに一度、当時の豊橋鉄道グループ全従業員が「認知症サポーター養成講座」を受講したことがあるという。認知症サポーター養成講座は厚生労働省の旗振りで実施されている取り組みのひとつだ。認知症に対する正しい知識と理解を持ち、地域で認知症の人やその家族に対してできる範囲で手助けする「認知症サポーター」を養成する講習会で、地域や職域団体などで開催されている。豊橋鉄道はこの養成講座を受講したことから、豊橋市の「認知症サポーター企業」として登録されている。ところが、それ以降は継続して講座を受講できずにいた。

 公共交通事業者には社会問題に対応しながらも、利用者の安全や暮らしを守る使命がある。同社ではそうした使命と共に企業の成長、人材育成の重要性を改めて認識し、10年前から集合研修を実施するようになった。研修会社の専属講師に依頼し、ビジネスマナーや接遇マナー、その時々の課題をテーマに毎年1月ないし2月に実施してきた。「年明けにはグループ全体で研修を受ける」という意識が定着し、ワークエンゲージメントの高まりを感じられるようになっていた。

 そんな矢先、新型コロナウイルス感染症が蔓延。集合研修自体が難しくなった。ところが偶然か必然か、2020年の秋に愛知県福祉局高齢福祉課から、接客をする業種向けに県が独自で開発した「ONEアクション研修」の説明会をするという案内が届いた。