都市における人とクルマの共存は都市計画にとって長年の課題だ。クルマのありようが大きく変わろうとするこれから、人とクルマの共存はどうあるべきか。この課題に最高速度の制御と、車外に速度の表示装置を備えた「ソフトカー」の開発という角度から向き合ってきた千葉商科大学教授の小栗幸夫氏に、これからの都市と人とクルマのあるべき関係性を聞く。

――都市と人とクルマの関係で言うと、市街地の構造にも問題があると指摘されています。

千葉商科大学政策情報学部・大学院政策研究科教授の
小栗幸夫氏(以下、人物写真の撮影は尾関 裕士)

日本で旧道路法が定められたのは1919年です。それに併せて道路構造令や街路構造令が制定されています。旧建設省時代に大臣官房技術審議官を務めた矢島隆氏によると、その当時、クルマの保有台数は1万台を切る程度の水準です。構造令に「自動車道」という言葉は見当たりません。歩行者とクルマを分けない「混合交通」を前提にしていたのです。

しかも、市街地の道路は極めて狭い。土地区画整理事業で計画的に整備される市街地の道路でさえ通常は幅員6mです。そこでクルマのスペースを片側2.5mと考えれば、人のスペースは片側50cmしか残りません。クルマが道路を走行するときは、人は排除されざるを得ない構造です。

筑波大学教授の石田東生氏も、日本の道路は総延長の約85%は歩車分離されていないことを指摘しています。車道と歩道の区別はなく、せいぜい間をガードレールなどで区切っている程度です。そういう市街地を走るクルマがどのような性能を持つべきか、戦後、日本でクルマが急速に普及する前に考えておくべきでした。

――クルマは当然ながら、そうした日本の市街地とは全く無縁に登場してきました。

欧州でクルマが登場した当初は、既存の道路にクルマを受け入れることに対して慎重だったようです。英国では蒸気自動車の時代、人が赤い旗を振ってクルマを先導し警告を発する赤旗法が定められました。ドイツではガソリン車が登場した1886年当時、公道の走行が禁止されていたそうです。ところがそうした姿勢は徐々に変わっていき、米国で1908年、T型フォードが登場すると、その製造台数は1927年までに1500万台を超え、1世帯1台への基盤が次第に整っていきます。

ソフトカーの一人乗り電気自動車版「ソフトQカー」。2012年9月に開催した「ソフトカーと銀座まちあるき」の様子(画像提供:小栗幸夫氏、撮影:田邊直毅氏)

生の技術は社会の中でコンフリクトを起こす

こうして社会に急速に受け入れられるようになってきたクルマの性能の中で最も重要と考えられてきたのが、スピードです。米ゼネラル・モーターズ(GM)の経営者だった(アルフレッド・)スローンは、クルマの競合相手を聞かれ、ダイヤモンドと答えたといいます。クルマの本質は身を飾るものということです。だからこそ、スピードや馬力といった性能スペックが意味を持つのです。スピード性能は備わっていないといけない――それが、クルマの開発に携わる技術者の基本精神の中に根付いていると思います。

――クルマの価値である、そのスピードを制御してしまう「ソフトカー」のコンセプトは、どこから生まれたのですか。

筑波大学の講師を務めていた1979~83年の間、筑波研究学園都市で暮らし、クルマ依存の都市計画に疑問を抱いていました。歩行者空間には人影がなく、人と人の関係性を築き難い。クルマはスピードを上げ、交通事故が起きる。筑波のまちをクルマから解放しようと自らできることを考える中で頭をよぎったのが、「歩車融合」の発想です。

人とクルマの関係を振り返ると、それまでの基本は「歩車分離」の発想です。ところが1980年代に入ると、「ボンネルフ(生活の庭)」や「コミュニティ道路」という名称で日本でも「歩車融合」の取り組みが具体的に紹介されるようになってきました。

その要は、速度制御です。「ボンネルフ」や「コミュニティ道路」では、植樹マスや歩道を突き出させて車道を曲げ、ハンプと呼ばれるこぶ状のものを路面につくり、クルマの速度を制御します。道路の構造を変えて速度を制御するなら、クルマに装置を組み込み、道路にふさわしいスピードまで最高速度を制御するのもいいのではないか、そう考えました。

名称に用いた「ソフト」は、「ソフト・テクノロジー(=社会技術)」からの連想です。

多くの技術はそれを生のままで社会に持ち込むと、人間の生理、社会の成り立ち、自然、ほかの技術などとコンフリクトを起こします。そうならないように、人間の知恵を組み込み、生の技術をさまざまに制御し、人間、社会、自然、ほかの技術などと有機的なつながりを持った技術にすべきではないかと考え、そうした技術を「ソフト・テクノロジー」と呼んでいました。その対局にあるのは、生の技術である「ハード・テクノロジー」です。