信州大学の手嶋勝弥教授が中心となり研究開発を進めている結晶化技術が、食、医療、環境・エネルギーなどの分野で大きな注目を集めている。「フラックス法」により生成した無機結晶材料群は「信大クリスタル」と名付けられ、重金属を除去する浄水器、機能性の高い人工関節、小型・高容量・安全なリチウムイオン二次電池材料など、様々な成果を生み始めている。特に浄水器の実用化は、安全な水を得にくい地域の暮らしを改善するだけでなく、酒類の醸造施設、農園・養殖、飲食店などで味と品質を向上させる。水から食を変え、地域も活性化するイノベーションを取材した。

世田谷区・経堂で12年ほど飲食店を運営する筆者は、全国各地のミネラルウォーターや温泉水を取り寄せたり、浄水器を試したり、水にはこだわってきた。今年の春頃からウォーターサーバーに心ひかれながらも「手軽で場所を取らず、安価な美味い水を確保できないか?」と考えていた時に出会ったのが、トクラスが販売する「ナティオ(NaTiO)」だった。

ペットボトルほどの透明な筒。水道水を注いで、円型の浄水カートリッジを上部から下部(底)にプッシュすると、簡単に濾過された浄水が手に入る。塩素臭さがなく、美味しいお茶や珈琲を楽しめるようになった。カートリッジ付きの本体価格が約3000円。カートリッジが約1000円。1個のカートリッジで1日2リットルの浄水を約2カ月に渡り作れるから、1リットルあたり8円台。ペットボトルのミネラルウォーターと比べると、かなりの節約になり、旅先にも携帯できるので、すっかり気に入ってしまった。

手嶋教授とトクラスが共同開発した浄水ボトルのNaTiO(ナティオ)。浄化フィルターには塩素を除去する活性炭の他に「信大クリスタル」の1種である世界初の多層構造の結晶材料「三チタン酸ナトリウム」が使われている。浄水フィルターは交換式。従来の浄水器に比べて軽量でコンパクト、繰り返し使えることもエコである(写真撮影:山本真梨子)
手嶋教授とトクラスが共同開発した浄水ボトルのNaTiO(ナティオ)。浄化フィルターには塩素を除去する活性炭の他に「信大クリスタル」の1種である世界初の多層構造の結晶材料「三チタン酸ナトリウム」が使われている。浄水フィルターは交換式。従来の浄水器に比べて軽量でコンパクト、繰り返し使えることもエコである(写真撮影:山本真梨子)

商品の背景を調べているとさらに興味が増した。浄化フィルターには信州大学の手嶋勝弥教授が中心となって開発した結晶材料「信大クリスタル*」というコア技術が適用されており、飲料用の浄化フィルター以外にも、蓄電池技術、医療分野、農業・食品加工など様々な応用が始まっている。アフリカのタンザニアでは汚染された水を浄化する信大クリスタルのフィージビリティスタディー(実現可能性調査)が始まっており、現地の暮らしを一変できると期待が高まっているという。
*信州大学はフラックス法で育成した結晶材料全般を「信大クリスタル」として商標登録を済ませており、広範囲なブランディングと商品プロデュースを展開している。

ホームページのステートメントコピー「笑顔のソリューションを。(SOLUTIONS CREATING SMILES)」が印象的だった。スクロールすると、透き通った瞳のアフリカの子どもたちの写真があった。コロナ禍の閉塞感を吹き飛ばす夢のある取り組みだと直感した筆者は、長野市にある信州大学工学部に手嶋教授の話を聞きにうかがった。

信大クリスタルで地域の水を使った地域の食産業を促進

JR長野市駅から車で5分。信州大学工学部キャンパスでお会いした手嶋勝弥教授の話は、多様で豊かな未来を感じさせる内容だった。筆者が驚いたのは、信大クリスタルを使った飲料用の浄化フィルターが、安心・安全な水を簡単に作るだけではなく、地域の食品産業や食文化を育む特性を持っていることだった。

「信大クリスタルを使った飲料用の浄化フィルターには、不要なものを吸着除去しながらミネラルを残すという特性があります。そこが重要なポイントなんです」

信州には日本酒の蔵がたくさんある。日本酒を仕込む際には、浄水器を使って水道水から塩素や様々な重金属イオンなどを除去、その水を使っている。しかし、そうして作られた水はミネラルも除去された超軟水。日本酒はマグネシウム、カルシウムなどのミネラルがないと発酵が上手くいかないという。

「そのため浄水器で濾過した水に、業者から購入したミネラルを後から加えるということが行われていますが、それだと本当の意味での地産地消にならないのではと。信大クリスタルの技術で作った浄水は、土地の水の本来のミネラルを含む水です。日本酒やクラフトビールなどの製造現場で使われ始めていますが、どれも味が良くなったと好評です。また、長野には味噌の蔵もたくさんありますが、味噌にも日本酒と同じような課題があるそうです。この味噌づくりでも、信大クリスタルで磨いた水の活用が始まっています」

手嶋勝弥(てしま・かつや)氏。信州大学教授(工学部物質化学科、兼務:環境機能工学科)、信州大学学長補佐、信州大学先鋭領域融合研究群先鋭材料研究所所長。1972年生まれ。フラックス法による無機結晶育成を舞台とし,多岐にわたる機能性結晶や結晶薄膜・複合体の創成に従事している(写真撮影:山本真梨子)
手嶋勝弥(てしま・かつや)氏。信州大学教授(工学部物質化学科、兼務:環境機能工学科)、信州大学学長補佐、信州大学先鋭領域融合研究群先鋭材料研究所所長。1972年生まれ。フラックス法による無機結晶育成を舞台とし,多岐にわたる機能性結晶や結晶薄膜・複合体の創成に従事している(写真撮影:山本真梨子)
上段は、結晶の製造企業と共同開発している透明サファイアインゴット。下段はフラックス法およびその関連技術で育成した宝石結晶など。下段中央に見える緑色透明結晶は、信大の校章をデザインしたグリーンサファイアタックピン(写真撮影:山本真梨子)
上段は、結晶の製造企業と共同開発している透明サファイアインゴット。下段はフラックス法およびその関連技術で育成した宝石結晶など。下段中央に見える緑色透明結晶は、信大の校章をデザインしたグリーンサファイアタックピン(写真撮影:山本真梨子)

手嶋教授の言葉は、水道水の成り立ちを考えると理解できた。ある地域の山々に降った雨や雪は、その土地独自のミネラル分を吸収して地下水や小さな水の流れとなり、河川に合流する。やがて浄水施設で取水され、衛生管理のため塩素などを使って殺菌されて水道水となる。

水道水に信大クリスタルを使った飲料用の浄化フィルターを適用すれば、ミネラルを残しながら塩素などを吸着除去することになる。つまり、そうして得られた水は、その土地の自然の味わいのある安全な美味しい水となる。

「私たちが応援したいのは、地域の水を使った地域の(食を含めた)ものづくりなんです」

信州中野市の「丸世酒造店」が醸す「勢正宗 信大仕込」は、信大クリスタルで磨いた仕込み水を使用した純米吟醸酒。伊那市の「In a daze Brewing (イナデイズブルーイング)」は、地元の水道水を浄水にしてクラフトビールを製造。他にも県内で、イチゴなどの露地栽培や陸上養殖などへの応用を計画している。

手嶋教授が中心となって取り組む事業は、正式には『革新的無機結晶材料の産業実装による信州型地域イノベーション・エコシステム』と名付けられ、文部科学省の「地域イノベーション・エコシステム形成プログラム」に採択されている。事業化プロジェクトの三本柱は「重金属吸着剤を用いた浄水器の商用化」「高い機能と耐久性を持つ人工関節などの開発」「短時間充電と長期使用が可能な小型・高容量・安全なリチウムイオン二次電池材料の開発・商用化」。浄水器の商用化以外の2つも、難しい社会課題の解決と産業育成の両立を目指す。

「地域のエコシステムをつくるのが信大クリスタルのミッションなんです」

農作物も日々の食事も飲料も水なくしては作ることはできない。当たり前の話だが、食の基本は水なのだ。その土地の水が簡単で安価に安全で美味しくなれば、農業や食品産業が活性化し、日々の食卓に美味しいものが並び、地域は豊かになるに違いない。

手嶋教授が言う「地域の水を使った地域のものづくり」の割合が高まれば、輸送や移動にかかるエネルギーコストも低減できるし、SDGs(持続可能な開発目標)にも適合する。信大クリスタルの活用による長野県の取り組みは、世界中の地域で導入可能なモデルと感じた。

信大クリスタルで磨いた仕込み水を使用した「丸世酒造店」の純米吟醸酒「勢正宗 信大仕込」(写真撮影:筆者)
信大クリスタルで磨いた仕込み水を使用した「丸世酒造店」の純米吟醸酒「勢正宗 信大仕込」(写真撮影:筆者)