昭和30年代以降、人口増加や経済成長を背景に、都市を水平に、垂直に展開させていこうとする「未来都市」が構想されてきた。しかし人口減少や成熟経済の時代を迎えると、都市が対応すべき社会課題はがらりと変わる。キーワードは、構造の転換から価値の創出へ――。未来都市の系譜をたどり、都市の未来と可能性を展望する。

「火星に住める日がやってくるのか!」――。国際宇宙会議で飛び出したという火星移住の構想を伝えるニュースに驚いた人も多いに違いない。実現可能性はさておき、宇宙空間はそう遠くないうちに手の届きそうなフロンティアとして魅力を放つ。

人類は常にフロンティアを求め、その活動領域を広げ続けてきた。その本性は、未来都市の構想や開発プロジェクトにも表れる。宇宙まではいかずとも、海上、深海、空中、地下、と地球上のあらゆる空間が、その対象に据えられてきた。

表は、この半世紀ほどの間に発表された未来都市の構想や開発プロジェクトの一例である。時代背景や発表主体によって未来都市を通じて対応しようとする社会課題が異なるため、内容に一貫性はない。ただ、一つの傾向は見て取れる。それは、都市構造の転換から新しい価値の創出へ、目指すものが変わってきたということだ。

名称 発表時期 主体 概要
東京計画1960 1961年 丹下健三氏 東京湾に平行射状の軸を持つ都市軸を展開。軸上には新東京駅を設置
幕張新都心 1983年 千葉県企業庁 東京湾の埋立地にコンベンション施設を核とする国際業務都市を整備
ファイバーシティ 2005年※ 大野秀敏氏ほか 「境界」「流路」など線状の要素に働き掛け、既存の都市を再組織化
Fujisawaサスティナブル・スマートタウン 2011年 パナソニックほか 工場跡地にサステナブルなまちを、「くらし起点」の発想で開発する
深海未来都市構想 2014年 清水建設 深海に海底プラントを、海面近くに球体のベースキャンプを整備する
(表)主な未来都市構想
※バージョン1.0にあたる構想の発表時期。最新のバージョン3.0にあたる構想は2016年

バブル経済が崩壊する1990年代までは、国土の均衡ある発展を目指しながら大都市への集中に歯止めが掛からなかったこともあって、未来都市は都市構造の転換を目指していた。「東京計画1960」は、東京湾上に伸びる都市軸上に中枢機能を集積させる、その代表格だ。言わば、成長の時代の未来都市である。

現実の開発プロジェクトは、都市機能の分散を促そうとする都市政策によって拠点都市に誘導された。東京都の施策で言えば、新宿や渋谷などの副都心、国の施策で言えば、横浜や千葉などの業務核都市、それらの拠点都市では情報化や国際化をキーワードにさまざまな開発プロジェクトが打ち上げられた。

ところが1990年代の後半以降、大都市の開発ブームは下火になる。高齢化に少子化が加わり、人口の減少が予想されるようになると、都市間の競争意識が高まり、都市の価値を高めることに目が向くようになる。

都市の価値の一つとして注目されるようになったのが、持続性を意味するサステナブルという考え方だ。地球温暖化の防止を背景に、開発プロジェクトにおける環境配慮は急速に広がっていく。成熟の時代を象徴するテーマだ。東日本大震災を境にエネルギーの自給自足に関心が集まるようになると、サステナブルなまちとしてその最適利用を可能にするスマートシティの開発プロジェクトが各地で目立ち始める。

こうした時代の移り変わりを背景に、建設技術を駆使した壮大な未来都市構想をかねて発表してきた大手建設会社の取り組みにも変化が表れ始める。社会の課題にどう応えるかという視点を強く打ち出すようになったのである。技術誇示型からソリューション提案型への転換と言えよう。

では、これらの未来都市は具体的にどのようなものなのか、そしてこれからの都市づくりに何を示唆するのか――。今回はまず前編として、主に都市の造り替えを狙った未来都市の話題を取り上げていく。

「東京計画1960」アメーバから高等動物への進化

最初に紹介するのは、建築家・丹下健三氏が提案した「東京計画1960」である(写真1)。都心から東京湾上にハシゴのように伸びる都市軸上に日本経済を支える各種の中枢機能を集積させる一方で、大量輸送用のモノレールなどの交通機関と個人輸送用の道路を仕込む。その両翼に広がる平行射状の軸にも交通システムを重ね合わせ、その先に埋め立てや人工地盤で造成した住宅地との間を結ぶ。東京湾上に都市を展開させていくイメージだ。

(写真1)「東京計画1960」。東京湾上に展開する都市軸の両翼に広がる軸は点在する住宅との間を結ぶ。都市軸の左右、羽田と浦安辺りに空港を想定していた(画像提供:川澄・小林研二写真事務所)

当時、都心部への集積という社会の課題に対応するためには、拠点の分散という考え方が取られた。東京区部の副都心や東京圏の衛星都市が、それにあたる。一見すると「東京計画1960」も同じ考え方に立っているようだが、実は違う。丹下氏の考え方を、東京商工会議所が当時発行していた雑誌「東商」に掲載された記事「『東京計画』の提案」(1961年7月)を基に見ていこう。

この記事によれば、提案の根底には、第3次産業は分散できないという考え方があることが分かる。現実には安価な土地を求めて郊外方向に放射状に広がることになるが、都心との行き来は絶えない。いきおい副都心や衛星都市など郊外からの交通を都心に集めることになり、都市交通の混乱を防ぐことはできない、と主張する。

「東京計画1960」はこうした求心型・放射状型の都市構造を、東京湾上に伸びる都市軸とその両翼に広がる平行射状の軸で構成する都市構造に転換し、第3次産業の集積という時代の流れにあらがうことなく、都市交通の混乱という社会の課題に応えることを狙った。

それだけに、都心部に通過交通が流入するのを避ける考え方は徹底している。東京湾上に伸びる都市軸には新東京駅を設置。そこから海底を伝って、川崎を経由して東海道線方面と、同じく船橋を経由して東北線・常磐線方面とつなげていく。東京近郊の都市との間の交通は都心ではなく、この新東京駅で受け止めようという発想だ。

この計画ではさらに、こうした東京湾上への都市の展開に併せて、既成市街地も同じように求心型・放射状型から線型・平行射状型に変革する方向に再開発していくことを想定する。丹下氏はこれら一連の都市構造の転換を、一つの核を取り囲むアメーバから、脊椎と動脈、さらに脊椎から平行射状に伸びる肋骨のようなブランチで構成される高等動物への「進化」になぞらえる。

いまの東京を俯瞰すると、都心から臨海副都心にかけて、都市軸としてはまだ弱いもののここで示されたような都市の展開が見えてくる。時代背景は大きく異なるとはいえ、東京への集積が一向に衰える兆しを見せない中で、この「進化」という考え方を当てはめる余地はまだ残されているのかもしれない。

「幕張新都心」(千葉県)メッセを核にまちづくりにも配慮

1980年代に入ると、東京都心一極集中という都市構造の転換を狙って埋立地に新しい拠点を整備する動きが出てくる。東京湾岸で言えば、東京都の臨海副都心、横浜市のみなとみらい21、千葉県企業庁の幕張新都心である。埋立地という広大な未開の地に新しい都市をつくるという点で、いずれも未来感を持つ開発プロジェクトとして登場してきた。

それらの中でもひと際強い未来感を抱かせたのは、千葉県が1983年に基幹プロジェクトとして位置付けた幕張新都心である(写真2)。コンベンション施設「幕張メッセ」を核に、先端産業や外資系企業の拠点を誘致し、ホテルや商業施設も整備する計画だ。成田国際空港に車で約30分という立地条件も生かし、国際業務都市として整備する方向を打ち出した。

(写真2)幕張新都心の中心部。球場の上に見えるコンベンション施設の幕張メッセを核に、就業人口約15万人、居住人口約2万6000人のまちとして計画された(画像提供:千葉県企業土地管理局、2007年度撮影)

開発主体は千葉県企業庁。千葉県内で埋立地や工業用地などの造成・分譲を手掛けてきた地方公営企業だ。幕張新都心の一帯を埋め立て造成し始めた1973年当初は、隣接する検見川浜や稲毛海岸と同じように海浜ニュータウンとして開発する計画だった。

ところがその後、時代のニーズに基づき業務施設や教育施設などを誘致する方向性を打ち出し、最終的にはコンベンション施設を核とする新都心の開発へと姿を変える。背景には、国土庁(当時)が1985年に公表した「首都改造計画」の策定作業がある。同計画では多核多圏域型の都市圏づくりを目指し、その具体の核として業務核都市を位置付けていた。千葉市はその業務核都市の一つ。国を挙げての開発プロジェクトとも言えた。

何より、世界を相手にするコンベンションシティというコンセプトが「新都心」としての新しさを感じさせた。千葉県企業庁がそれまで手掛けてきた開発事業と同じく、「分譲」を基本に据えながらも、電線を地下に埋設したり新都心内の一部にごみ空気輸送システムを導入したり建築デザイン上のルールを定めたりするなど、「新都心」としてまちづくりにそれまでにない配慮を見せた。

一方で、ハイスペックな造りの未来都市が抱える極めて現実的な課題として、まちの維持管理が指摘されていた。デベロッパーにあたる千葉県企業庁が開発した新都心のうち道路や公園などの公共・公益施設用地にあたる部分は地元行政である千葉市に移管される。しかし、それが地元行政にとって一般的な仕様を超える造りの場合、維持管理コストの面から、また市内のほかの区域との公平性の面から、引き受け難くなってしまう。実際、幕張新都心でもそうした事情から、公共・公益施設用地にあたる部分の移管は順調には進まなかった。

それがようやく動き出したのは、千葉県企業庁がデベロッパーとしての役割を終え改組されることが決まってからという。2015年度いっぱいで役割を終えた企業庁に代わって業務を引き継ぐ千葉県企業土地管理局資産管理課主幹の田中隆一氏は「公益施設用地の一部などを除き、移管をほぼ終えることができた」と話す。