引退後のセカンドキャリアをどうするかは、人生のほとんどを競技に集中してきたアスリートにとっても、若者に競技に専念できる環境を与えたいスポーツ界にとっても放置できない課題となっている。そんな中、元アスリートをITエンジニアとして育成するセカンドキャリア支援の試みが始まった。これまでセカンドキャリアの選択肢として全く考えられてこなかった業界は、実は元アスリートが競技を通じて培ってきたスキルを活かせる場所かもしれないという。

正社員として働きながらITエンジニアを目指す選択肢を提供

「引退したスポーツ選手がセカンドキャリアとしてITエンジニアを選ばないのは、ただ『その選択肢がある』という情報にたどり着いていないだけじゃないか、と私は考えています」。ITエンジニアを育成する教育事業を行うスタートアップ企業、H.R.I代表取締役の溝橋正輝氏はそう語る。

H.R.Iは今年(2021年)2月、株式会社ASSISTと提携し、スポーツ経験者にITエンジニアを目指す選択肢を提供するセカンドキャリア支援プロジェクトをスタートさせた。スポーツ経験者を自社で正社員として採用し、働きながら学ぶ環境を提供する試みだ。プロ、アマ問わず、さまざまな経歴のスポーツ経験者100人近くから応募があり、7月末現在、十数人が研修を受けている。

「働く×学ぶで未来を創る」というビジョンを掲げる同社は、創業から5年で延べ数百人のITエンジニアを未経験から自社で育成してきた。パティシエや美容師など全く違う業界や業種から転身した人も少なくない。中には、前職が土木系でキーボードを打つのもままならないところからスタートし、入社4年目にして法人企業を一人で担当するまでになった人もいるそうだ。溝橋氏の冒頭の言葉は、そういった実績に裏打ちされる。

しかも、スポーツ経験者が競技力を高める過程で身に付けたスキルはIT業界のエンジニアになるうえでも欠かせないものと評価し、通常の選考フローとは異なる「ポテンシャル採用」を基本とする。要は、ITにまつわる学歴や職歴などは一切不問、競技に打ち込み、一定の結果をつかんだ経験を持つ人ならば、目標に向かって努力する力や集中力、チーム内でのコミュニケーション能力といったスキルを持っていると判断して採用するというのだ。

H.R.I代表取締役の溝橋正輝氏。高卒で就職後、2年間の工場勤務を経て大学進学を決意し学び直した自身の経験からも、教育や「選択肢がある」という情報の重要性を実感している(写真提供:H.R.I)
H.R.I代表取締役の溝橋正輝氏。高卒で就職後、2年間の工場勤務を経て大学進学を決意し学び直した自身の経験からも、教育や「選択肢がある」という情報の重要性を実感している(写真提供:H.R.I)

もちろん全員が未経験で、スポーツに専念してきただけにパソコンに触ったことがない人も多い。しかし、実際に採用したスポーツ経験者の学ぶ姿勢は非常に貪欲で、臆することなく質問するなど積極的な取り組みが顕著だという。溝橋氏は「皆さん本当に“ゼロからここで新しいキャリアを築いていく”という熱意を持って入ってきていただいています。努力できる能力があればIT業界で高いパフォーマンスを出すことは十分可能だと思っています」と断言する。

同社のITエンジニア育成プログラムは、従来のスクール型とは異なり、未経験者を正社員として採用したうえで、プログラミングなどを一から学ぶ環境を提供するのが特徴だ。研修中の社員は、同社が抱えるプロジェクトに入って働きながら、独自のプログラミング学習教材を利用してオンラインで学習していく。専任の講師のサポートのもと、約300時間のカリキュラムを終え、4人チームで実践的なシステム開発を経験した後、ITエンジニアとしてデビューできる仕組みだ。

未経験からITエンジニアを育成してきた実績の背景には、同社が開発した学習教材「DAWN(ドーン)」に凝らした工夫がある。未経験者が一から学ぶことを想定して開発されたDAWNは、UI(ユーザーインターフェイス)やUX(ユーザーエクスペリエンス)にもこだわってアップデートを重ねてきた。キャラクターの「アポロくん」とともに学ぶ最新版は、「『IT業界とは』の説明から、小学生でもわかるように、というところまで視点を落として」(溝橋氏)作られている。

同社の育成プログラムでは、未経験からITエンジニアとして働ける基礎的な技術を身に付けるまで約1年だという。希望すれば、フリーランスとして独立したり、さらに上流の工程を担当することができる技術を学んでいくことも可能だ。研修中のカリキュラム代や講師代は一切かからない。スポーツ経験者についても通常採用の社員と同様に上記の流れで育成するが、学ぶ姿勢を定着させるための入社後2カ月間の研修だけは、講師がマンツーマンに近い形で手厚くサポートするようにしているそうだ。

顧客との折衝、リーダーシップ……アスリートとしての努力や経験は活かせる

とはいえ、IT分野は適用分野が幅広く、しかも進化が早い。多様な知識やノウハウが求められるITエンジニア職に、スポーツに専念してきた人が約1年で就けるようになるものなのか。今回、同社の呼び掛けに応じてエントリーしたスポーツ経験者もやはり「自分にもできるんですかね」と懸念する人が多かった。

人事部担当役員として面接を担当した同社取締役の小國真氏は次のように感触を語る。「自分で調べて無料のツールを使って学習している方もいらっしゃって、IT業界自体にはすごく興味を持っていただいていることを感じました。ただ、自分が本当にやっていけるのかわからないという方がほとんどでした。そこで、正社員として働きながら学べる環境はスタートとして入りやすいことや、業界の成長性について説明させていただくことが多かったように思います」

実は小國氏は、同社がこのプロジェクトで提携しているASSISTの取締役も務める。ASSISTは現役プロサッカー選手の大津祐樹氏(ジュビロ磐田)と酒井宏樹氏(浦和レッズ)が2019年に立ち上げた会社(大津氏が代表取締役、酒井氏が取締役)で、大学でサッカー部に所属する学生のキャリア支援を行うプロジェクト「Football Assist」に取り組んでいる。大津氏とジュニアユース時代に同じチームだった小國氏もASSIST設立時から参画。部活で忙しく就職活動機会を逃しがちな学生と、サッカーに打ち込んできた学生を評価する企業や自治体をつなぐ役割を果たしている。

セカンドキャリア支援プロジェクトは、大津氏(右)、酒井氏(左)が発起人として活動する「Football Assist」とともに取り組んでいる(出所:H.R.Iによる同プロジェクト資料)
セカンドキャリア支援プロジェクトは、大津氏(右)、酒井氏(左)が発起人として活動する「Football Assist」とともに取り組んでいる(出所:H.R.Iによる同プロジェクト資料)
H.R.I取締役の小國真氏。「Football Assist」にも立ち上げから関わっている。
H.R.I取締役の小國真氏。「Football Assist」にも立ち上げから関わっている。